■仆― 289 ―毎に、自ら歉じて筆を下す能はず。曩に戊子の冬、履吉の楞伽僧舎に寓するに同じくするに値す。履吉、佳紙を出し圖を索す。雪飛ぶこと幾尺、千峯翠を失い、萬木僵む。興に乗りて毫を濡し、關山積雪を演作せんとするも、一時に緒を就すこと能はず、嗣後に携へ歸る。或ひは作り或ひは輟み、五たび寒暑を易えて成る。但だ用筆拙劣にして、古人の萬一に追蹤すること能はず。然れども情を明潔に寄せるの意、當に自ら減ぜざるべきなり。因りて歳月を識し以て之を歸す。嘉靖十一年壬辰冬十月既望、衡山文徴明記す。自題においては、本作品が、嘉靖7年(1528)に友人の王寵(1494〜1533)とともに石湖(江蘇省蘇州市)の楞伽僧舎、すなわち治平寺に寓していた際に見た雪景色を契機として、王寵のために制作したこと、そして完成までに4年の歳月を要したことなどが述べられている。またその筆は古人に劣るものの、描くにあたって心情を明潔に寄せたことについては彼らに劣るまい、との自負を語ってもいる。この他にも自題は、文徴明が雪景図という画題にどのような意味を見出していたか、また過去にどのような雪景図を実見していたかを記している点で非常に重要なものであるといえる。以下、自題における記述を参照しつつ考察をおこなっていく。二.文徴明の雪景図学習自題の冒頭において文徴明は、雪景図が古来より高人逸士が自らの「孤高抜俗の意」を託すため、好んで制作してきた画題であると述べる。この一節は、文徴明が雪景図を、その内包すべき高い精神性の故に特別な画題と認識していたことを窺わせる。《関山積雪図巻》以前の文徴明の雪景図は、現存作例、記録ともに決して多いとはいえない。最初期の作として、正徳9年(1514)に張明遠なる人物のために《深山欲雪図》を制作したことを手始めに(注2)、正徳10年(1515)の、李成に倣った《倣李成渓山深雪図》(台北故宮博物院蔵)〔図2〕の制作、また正徳12年(1517)、親しい友人であった蔡羽(1470前〜1541)のために制作した《渓山深雪図》(台北故宮博物院蔵)、嘉靖10年(1531)の《寒林晴雪図》(上海博物館蔵)〔図3〕があるが、後者は山容表現が《関山積雪図巻》により近いものの、全体の図様はほぼ前者の写しとなっている。また嘉靖10年(1531)、友人の袁襃(1499〜1576)のために《袁安臥雪図》を制作したことが確認できる(注3)。しかしこうした作品の少なさが、雪景図の有するべき高い精神性に対する謙遜に起因するものであるととらえるならば、それはこの時期の文徴明が、のちに《関山積雪図巻》自題において語るような、古人に劣■■■■■■■
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