鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 290 ―らない明潔なる心情をもって雪景図を描いたとの自負を得るまでに至っていないことを示していよう。文徴明は《関山積雪図巻》制作に至るまでに、様々な過去の大家の雪景図を実見する機会に恵まれた。自題においてそれらの画家名、画題を逐一列挙するという異例の態度からは、それを誇りとする意識を窺うことができる。また自らの技術の至らなさを感じつつも、それらを何とか模倣しようと努めていたことも、自題からは窺える。そしてこれらのことは、文徴明が本作品のような雪景図の大作を制作するまでに、こうした雪景図学習の蓄積が大きな土台として存在したことを示唆している。実見したという雪景図は、唐の王維から元の王蒙まで幅広く、このうち郭忠恕の《雪霽江行図》、黄公望の《九峰雪霽図》などは、同画題の作が画家の代表作として今日まで伝わる。しかし今日伝えられる各画家の同画題の作品のうち、文徴明が確実に実見したといえるものを同定することは難しい。ただ、その画題からどのような作品であったかを推測することは、ある程度可能であろう。《関山積雪図巻》は、巻子装という横長のフォーマットにおいて広大な雪山を表している。こうした空間のとらえ方や全体の構成は、巻子装の作品から学ぶところが当然大きかったものと考えられるが、今日、巻子装の雪景図が少なからず伝わる画家として王維があげられる。王維の雪景図は、北宋には既に文人としての王維の名声とともに珍重され、高い評価を得ていたことが、米芾■『画史』などの記述からわかる。明時代においても、文徴明の師である沈周(1427〜1509)が、弘治15年(1502)に附した伝王維《江干雪意図巻》(台北故宮博物院蔵)跋において「王右丞之筆、神妙之致、悠遠之代、見亦罕矣」と、その稀少性と共に王維の画を絶賛している。そうした背景からも、文徴明が雪景図を描くうえで最も意識しなくてはならなかったのは王維でなかったかと考えられる。文徴明が目にしたという《雪渓図》は、その画題から雪深い渓谷を主に描いたものと考えられ、《関山積雪図巻》が、画面の多くに渓山を描く点からも、その構成などにおいて依拠するところは多かったのではないか(注4)。また伝王維《江山雪霽図巻》(個人蔵)〔図4〕は、巻首に文徴明の「王右丞江山霽雪図」という外題が附される雪景図である。題に関しては後世の模本とされるが(注5)、山の斜面を幾重にも重ねてゆく山容、山の頂に沿って樹木を配する表現は、《関山積雪図巻》のそれと近似しており、文徴明周辺に存在していた伝王維雪景図の画風を窺ううえで興味深い作品といえる(注6)。しかしこうした現存作は同時に、真筆の失われた時代において、文徴明達が目にできる王維画はいずれも統一されない画風の伝承作ばかりであったことを物語っている。ただこのような状況は、かえってそう

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