鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 291 ―した後世の模本から、本来の王維の画風というものがいかなるものであったかを探っていこうという意識を強めたのではないか。《関山積雪図巻》の山容や視点選択が、同じく王維の画題として人口に膾炙した《■川図》〔図5〕のそれと近似性がみられることも、そうした王維に対する精力的な学習成果の一部と考えられる(注7)。したがって本作品は、学習の末、文徴明が自分なりに解釈し表象した倣王維雪景図だったといえよう。それでは他の画家達の雪景図は、その学習のもと、《関山積雪図巻》においてどのように表されているのであろうか。本作品は広大な雪景の中に様々なモチーフが描きこまれている。それらは雪景図に用いる常套的なものともとらえられるが、そもそも自題において過去に見た雪景図を逐一列記するということは、同時に鑑賞者にこれらの作品を想起しつつ画面に臨むことを促すものでもあったはずである。そしてそれらの雪景図を念頭に置くことで、鑑賞者は画中のモチーフから様々な画家の雪景図を想起することが可能だったのではないか。例えば、明確なモチーフが想起される画題のものであれば、李唐《雪山楼閣図》は画中の楼閣から、そして郭忠恕《雪霽江行図》は、凍結した河川の岸辺に停泊する船の姿から想起できよう〔図6−1〕。また趙孟頫《袁安臥雪図》であれば、《袁安臥雪》という画題が、後漢の実直の士、袁安が屋内に横臥する姿と、彼を訪れる楚郡の太守と従者を描くものであるから、それは本作品の屋内から外をうかがう紅袍の人物と、彼のもとに向かう人物の姿に重ねることができる〔図6−2〕。また王蒙《剣閣図》は、《剣閣図》が洛陽から蜀へと入る桟道をわたる騎馬人物の一行と山間の関が描かれる画題であることを想起すると、本作品の谷沿いの桟道を渡る騎驢人物〔図6−3〕、画面後半の城郭都市の城門へと向かう人物の姿に重ねられよう〔図6−4〕。これらの画家達の雪景図は、本作品においてその画風ではなく、画題において反映されている。またその画題も必ずしも内容に沿った表現でないが、あくまで《関山積雪図巻》というひとつの絵画作品としての完成を優先した結果と考えられる。実際に本作品が、文徴明のみならず王維を初めとした諸画家をも想起すべき作品としてみられていたことは、嘉靖36年(1557)、弟子である陸師道(1510〜73)が本作品に附した跋における「其の気韻に至りては、則ち摩詰諸公を筆端に駆使せり」という一節から窺うことができる。したがって《関山積雪図巻》は、全体としての構成や山容などは王維を意識しながらも、随所に様々な画家の雪景図を想起させうるモチーフを入れ込み、積年の雪景図学習の集大成として完成したものであるといえる。しかし文徴明は、それを単なる混在に終わらせることはなく、一画面のなかで自身の画風によって無理なく再構成し、

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