鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 293 ―■■■■意」の重層的表象にもなりうると、文徴明はとらえていたと考えられる。またそれを成した文徴明の立場は、時空を超えた文人画家達の精神的交流を絵画上で実現させた仲介者であり、それは同時に彼らの系譜につながる文人画家としての自身の立場を、自他ともに確認させる意味をも有していたはずである。そうした作用を、文徴明自身も当然意識していたに違いない。《関山積雪図巻》を制作していた時期に、文徴明がこうした意識のもとで作品制作を行っていたことは看過できない。すなわち《関山積雪図巻》がこれまで自身の学んできた諸画家の雪景図をふまえ、再構成させたものであるならば、それは同時に各々の雪景図に画家が寄せた「孤高抜俗の意」をも、一画面の中に重層的に表象しようという意図があったのではないか。文徴明は絵画表現のみならず、文人画家としての精神的な系譜をも、作品のうえで表明しようとしたのである。こうした制作態度に、1530年代の文徴明の、積年にわたる古画学習の結実、そして文人画家としての意識の発露をみることが可能ではないかと考える。四.「石湖の冬」を表象するこれまで《関山積雪図巻》の絵画表現は、主に作品を贈った王寵との交友関係においてたびたび論じられてきた(注11)。しかし本作品が、両者が石湖において見た雪景色を契機として生まれたという制作背景に関しては、これまでほとんど着目されてこなかったといえる。文徴明は自題において「雪飛ぶこと幾尺、千峯翠を失い、萬木僵仆するに値す」と、石湖で目にした光景を克明に記しており、このことはその体験がどれほど印象深く、忘れがたいものであったかを同時に物語っている。以下、本作品が、石湖という場で両者が共有した体験をもとに生み出されたという背景に注意を向け、考察を行いたい。本作品は、石湖の雪景色にインスピレーションを受けながらも、石湖周辺の、さらにいえば江南のそれではない、広大かつ静謐な冬景として表されている。しかしここで石湖が、古来より多くの文人墨客が訪れ、また文徴明達をはじめとする蘇州文人も度々雅会を行った名勝であったことを想起するならば、本作品において文徴明が描こうとしたのは、そうした数々の文人の営為を内包する地としての、理想化された石湖の冬だったのではないか。そうであるならば、王維をはじめとした画家の雪景図を想起させうる本作品の表現も、過去の大家の「孤高抜俗の意」を重ね、石湖を高潔な文人達の精神世界として表象しようという意識によるものとみなせよう。また石湖が王寵の住まう地であったことを想起すれば、石湖をそのように表象することは、そこに

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