― 300 ―ルを敬愛していた(注2)。又黒田と旧知の足立源一郎も、作品解説や絵画論を著すなど、理論上の受容を活発に展開した一人である〔表2A番号1、表2B番号1〕。こうした関西に於けるアングル受容を概観した時に浮び上るのが、国画創作協会の機関誌的機能を担った『制作』とその関係者である。同誌の寄稿者には黒田の他、編集の中心的役割を果たした同協会顧問中井宗太郎の夫人愛子(あい)、竹内栖鳳の子息逸三(逸)、そして栖鳳門下で黒田と旧知の麥僊がいた。中井愛子は1920年同誌にアングルの作品解説を著した他〔表1番号6〕、28年彼の箴言を翻訳した『アングル随想録』を石原求龍堂出版部より刊行。アングルの藝術観を日本へ纏まった形で紹介し、アングル藝術の理論的受容の促進に貢献した。又竹内逸も同年作品解説を『制作』へ寄稿〔表1番号7〕。同稿によれば彼は「子供の時代からアルグンの作品に雑駁ながらに尊敬を有つて居た。」何を見たのか不明ながら、早くからアングルが一部の日本人の間で知られていたことが窺えて興味深い。他方土田麥僊は『制作』誌上でこそアングルに言及していないが、1923年5月6日付け『大阪毎日新聞』でこう語る。「佛蘭西では、今の若い人々はしつかりした畫をかくプツサンやアングルを非常に稱揚してゐる。自分もアングルの端正には襟を正す」。しかも彼の手元にはアングルの画集が残されていたから(注3)、丸みを帯びた人物表現等を参照したものと想像される。これに対し関東でアングル受容の扇の要となったのが、熊岡美彦ら槐樹社同人編輯の『美術新論』(継続後誌:『美術』)だ。同誌にはアングルの図版が重ねて掲載された〔表1番号13−32〕。その背後には熊岡や齋藤與里の意向があったと考えられる。齋藤は関東出身だが鹿子木門下で、足立と同じ船で洋行した経験を持ち、槐樹社の活動には大阪から参加した。その彼はアングルをこう評す。「(ドラクロアの)主義主張は繪画史上にも極めて有意義の事跡には相違なかつたが、アングルの古典主義を如何ともする事は出來ない。アングルの古典主義は依然として其の主張に存續理由が認められ、爾來新古典一派の祖として現畫壇にも命脈を存續して居る。」〔表2B番号11〕他方熊岡は1928年『美術新論』3巻5号に寄せた「巴里通信」に、恐らく27年当時のルーヴルの写真を添えているが、そこには展示物の作者名が書込まれ、アングルの名は一番多く3回記されている。又彼が同年模写するマネ《オランピア》の真上にも、書込みこそないもののアングル作品が見える。加えて、熊岡が28年同誌3巻11号に寄せた「巴里通信」で紹介する、27年撮影と考えられる私室(?)の写真には、アングル《グランド・オダリスク》の複製画(又は印刷物)が見える。ルーヴルでは伊■原文■■■
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