鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3.模写さて、伊原や熊岡に限らず多くの日本人作家は留学中に模写をした。アングル作品については伊原の他に鹿子木、田中繁吉、高田力蔵、向井潤吉、白川一郎、浦上正則、服部理子等が模写している(注4)。4.滞仏中の交流模本制作という特殊な行為が契機となるのみならず、在仏日本人同士の交流を通じてアングルへの関心が共有され、相乗的に高まっていった可能性は否めない。その一つの核と考えられるのが藤田嗣治だ。彼は絹糸の如きしなやかな輪郭線を操り、1920年サロン・ドートンヌ会員に迎えられるなど、フランス社会に自分の居場所を確立していた。パリで成功し、広く耳目を集める藤田がアングルを意識したのは遅くとも28年、「アングルからピカソまで─女性の肖像画と人物画」展(ルネサンス画廊)へ出品した前後と考えられ、この頃描かれた《ヘアバンドを巻いた女》には《グランド・オダリスク》の頭部からの影響が推測される。翌年一時帰国した折の東京美術学校で― 301 ―原宇三郎が同年から翌年にかけて同作を模写しており、伊原と親しい熊岡は《グランド・オダリスク》を《オランピア》に勝るとも劣らぬ位意識し続けたのだろう。熊岡の29年第6回槐樹社展出品作《裸体》(28年)には、道具立てや裸婦のポーズの点でアングル作品からの影響が窺われる。模本制作は個人研究が目的の場合もあれば、教材や蒐集品等、原作の代替品としての機能を担う複製の需要に応えることが目的の場合もあった。しかし何れの場合も長時間を要するが故に、誰が何を模写しているかは人々の関心を引き、又その場に他の作家が遭遇する可能性も高かった。例えば柏亭門下の高田の場合、1965年二度目の渡仏をし、年明け15日から《トルコ風呂》の模写を始める直前、藤田嗣治から年賀の返事が届き、その中に「よきアングルの模写が出来ます様 御祈り申し上げます」の一文が含まれていた〔表2A番号11〕。そして愈々ルーヴルで模写に励む彼のもとには、付き合いのあった長谷川潔や里見宗次が訪ねてきたのみならず、日本から視察団体に参加して来た、柏亭の実弟鶴三に偶然会ったこともあるという。このように、まず例外なく周囲の視線を浴びながら模写が完成した後も、体験談や模写の写真が刊行物に載ったり、作品が展観されることで、模本制作者と模本はアングル作品の魅力を伝達する役割を担い続けるのである〔表2A番号11、表2B番号4〕。

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