鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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5.時代背景滞仏中の日本人がアングルを意識した背景には、第一次世界大戦後の復興期にフランスで古典主義回帰が見られ(注9)、アングルが再評価されたことも関係するだろう。ロートやビッシェールらは、秩序と安定を求めて母国フランスの古典主義の伝統に拠所を見出したかのように、建設の時代に相次いで突入した。困難の時代にあって、苦悩や混沌、激情を吐露する表現主義と、そこから踏み出して堅牢な確固たる世界を希求する古典主義の並存が欧州に見られたことは、人間の根源的な欲求に適う自然な― 302 ―の講演で彼はこう語っている。「クラシツクのアングル伊太利に行つて、羅馬、希臘の彫刻から影響を受けて人體を描いたので、醫學上から見れば解剖が合つて居ないさうです[中略]我々は唯裸體らしい物を唯人にイルユージヨンを與ふるだけで濟むので我々は醫者ぢやない、我々は人間らしいものを描けば宜いと私は考へて居ります」〔表2A番号12〕。この発言は、オダリスクの図像に「三つばかり余計な脊椎骨がある」と言ってのけたド・ケラトリイの有名な評を念頭に置いたものではないだろうか(注5)。藤田がアングルの裸体画を意識した背景に、第一次世界大戦後の20年代のフランスで生命の起源としての女性賛美にも結び付く主題としての裸婦が流行した社会現象を見通す必要もあるだろう(注6)。藤田をアングルに比する見方は同時代のパリで既に見られた。藤田の友人高野三三男は、フランス人が特に素描作品を批評する際アングルを引合いに出したがり、藤田作品もその例に漏れなかったと回顧する〔表2A番号9〕。例えば、スイッソンの次の批評が該当するだろう。「フジタの作品はまさにアングルの明暗法なしのレリーフ、線のしなやかな唐草模様によって暗示されるレリーフである。フジタはまるで彼の日本の祖先たちと同じようにアングルと共有するものを持っているように見える。」(注7)こうした模様を間近で見聞きした藤田周辺の作家が、藤田を介してアングルを意識したのも自然な成り行きであろう。否、藤田を介したかどうかは別として、彼の周りでアングルへの関心を共有した顔触れには、高野と旧知の荻須高徳や猪熊弦一郎を始め、岡鹿之助、鈴木龍一、宮本三郎、そして石井柏亭が含まれる〔表2A番号2、5−6、表2B番号2−3、15〕。中でも鈴木は、アングルの図像を引用して1936年にフォトモンタージュ(注8)を、67年に絵画〔表3番号13〕を制作した。この点で鈴木は、20世紀に於ける既製品(美術品)からの引用と複製による創造活動の歴史の中に、アングルの図像の引用を行った日本人作家〔表3〕の先駆者として位置付けられる。

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