― 303 ―動きではあるまいか。この時流に沿うかのような動きを見せた画家の中には、時として愛国的な感情に誘われたフランス人のみならず、スイス出身のロベールやスペイン出身のピカソ等の異邦人も含まれていた。勿論そこには作家個人の関心も認められよう。例えばピカソの場合、対象の解体と再構成を経て、堅牢な造形表現の構築に移行したのは自然であり、且つ又新妻オルガの好みが作用したことも否めない。しかし戦後の大きな世相が作家個人の志向を後押しし、時代趣味を呈したというのが実のところであるように思える。在仏日本人の中にもこの流行を察知する者はおり、一昔前にアングルに興味を抱いた安井曾太郎〔表2B番号16〕の門下で1922年に渡仏した小島善太郎は、安井の紹介状で知り合った里見勝蔵と画廊を訪れた際里見が語ったピカソ評をこう記憶する。「今の彼はまた変わって、アングルを研究しているということです。それがどんな作風となって発表されるか、ともかく鬼才を持った男ですね。」〔表2A番号10〕後に「嫌ひなものは[中略]ピカソ、アングル」と語る里見が〔表2B番号12〕、小島にアングルを意識させたのは奇縁だ。否、それどころか、前田寛治(注10)や伊原らが加わって形成される「パリーの豚児」の間でアングルへの関心は共有されていくのである。こうしたパリの空気は日本にも伝えられた。寺崎武男は1921年『美術月報』3巻2号に寄せた「海外來信 ベエニスより」でこう報ずる。「新しい藝術が深い傳統の上にのびて行く事は此度もピガソーあたりを見て彼れが其を示して居るには驚きます、[中略]今巴里ではアングルなどが復活して居ります」。そして日本の内側からも招来作品を巡りアングルの影響を指摘する者が現れ始める。春山武松は1924年第3回佛蘭西現代美術展覽會(以下、佛展と略)出品作のロベール《浴み》を、同年『國民美術』1巻6号に寄せた「佛展の樂屋話」でこう評す。「肉體はアングル等の系統をうけて、彫刻的な堅さをもつて居り、その顏面は希臘式である。」同作右下の着衣の女性は、翌年『日佛藝術』5号に掲載された彼の素描の裸婦同様、《グランド・オダリスク》を彷彿させるポーズを示す。又中川紀元は1921年『中央美術』7巻10号に寄せた「フランス畫壇の若い人達」で、ロートが「此頃しきりにアングルを學んでいる」と指摘した。ロートやビッシェールのアングル評が両者に師事した経験のある黒田の著作で引用されたり〔表1番号33〕、或いは雑誌に訳載されたことも(注11)、アングリスムの認知度を高めただろう。ところで、美術が時代の要請に反応する傾向は、1923年関東大震災が起きた後の日本に於ける綜合美術協会の設立等にも見て取られる。翌年の『中央美術』10巻1号に
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