鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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6.作品等の公開その後もアングル作品の公開は緩やかに続いていく。中でも招来を幾度も実現したデルスニスの功は大きい。彼は三越の黒田鵬心と連携して1922年第1回佛展を開き、24年には三越を離れた鵬心と日佛藝術社を興し、その事業を継続した。この間22年第1回展終了後の7月『中央美術』8巻7号に、次回19世紀以降のフランス美術家中誰の作品の展観を希望するか、或いは又有意義と考えるか、アンケートを採った結果が公表されている。アングルを挙げたのは11人に上り、内作家は安井、中川の他、小林萬吾、辻永、萬鐵五郎、片多徳郎であった。そして、翌年佛蘭西現代水彩畫展覽會(大阪・三越;24年東京・三越)に《聖者の像》が出品されたのを皮切りに、24年佛展第3回展に《女 デツサン》、26年第5回展に《人物(歴史畫)(水彩)》、27年第6回展に《女 デツサン》《コムポジシヨン 同》、31年十週年記念フランス美術展覽會に《デツサン》と、アングル作品の紹介は続いた。― 304 ―載った「綜合美術協會の創立」によれば、この団体は建築設計、室内装飾、商用装飾図案を請け負わんとするもので、帝都復興に当たり社会の美化に努める使命感を帯びていた。岡田三郎助を筆頭に、伊原や田口省吾らアングル風の裸婦を描いた作家が名を連ねている。彼らは、現代に生れた美術家として社会と関わりを持ち、生活環境の美観を整え、「都市の調和」を逸早く創造することに努めねばならぬと奮起したのだ。日本人作家が調和と均衡を求める古典主義のフランスに於ける再燃に敏感に反応した背後には、こうした新社会の確立に向けた思索があったのかもしれない。この協会の会員の中に、アングル受容に特別な役割を果たした一人の人物がいる。絨毯や版画を制作したルビエンスキー伯爵だ。彼は地震が起きる半年前の1923年3月青山北町にあった自邸で泰西古畫展を催している。翌月『美術月報』4巻6号に「アングル[中略]等佛伊英の古名畫を展観した」と記される通り、これはアングル作品を日本で展観した最初期の事例に当たるのである。しかしこの流れが堰き止められることもあった。主題の問題である。第3回展でヌードを取り上げたロダン《接吻》等の一般公開が当局によって禁止され、関係者のみに入室を許す特別室での陳列を指導され、論争を招いたことはよく知られている。裸体を表したアングルの図像も又、実は別の場所で同じ憂き目に遭うことがあったのだ。そもそも油彩画が日本へ移入される過程に於いて、裸体は西洋独自の伝統的主題として特別視された。古くは明治期に小山正太郎門下の中村不拙が、「裸体を學ぶ事が

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