鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.《ケルミス大版画》と版画の受容《ケルミス大版画》は、約360╳1140mmの大規模な横長木版画である(注3)。そこには多彩なモティーフが画面一杯に描かれている。左上から、市の露店、教会での結婚式、インチキ歯医者、賭け事、居酒屋、輪舞、柱上り、九柱戯、刃渡り、女の徒研 究 者:山形大学 人文学部 教授  元 木 幸 一はじめに中世末ドイツの大都市ニュルンベルクは、1525年3月に宗教討論会の末、ルター支持を決定したが、同年1月には大きな災難がデューラーの身に振り掛かっていた。それは「無神論画家たち」と呼ばれた過激な信仰をもつ3人の画家たちが逮捕される出来事だった。3人とはゲオルク・ペンツ、バルテル・ベーハムとその兄弟で本稿の主役たる版画家ハンス・ゼーバルト・ベーハムである。皆デューラーの弟子だった。彼らが1525年1月16日市参事会で尋問された時の聴聞記録を一部見てみよう。「ゲオルク・ペンツは、質問にこう答える。汝は神を信ずるか? はい、私は神の存在を感じますが、この神であると考えられるかどうかは言えません。 汝はキリストをどう考えるか? 私はキリストについて何も考えません。 汝は神の言葉としての聖書を信ずるか? 私は聖書を信じません。 祭壇の秘蹟についての意見はどうか? 私は無駄と考えます。 洗礼は? 洗礼を有効とは思いません(注1)。」市外追放となり、一年を経ずして帰国したゼーバルトは、その後も師に迷惑をかける。度し難い弟子だったのである。彼は師の『馬体均衡論』草稿を盗み、師が亡くなって半年も経たない1528年7月に出版しようとした。この出版企画は寡婦アグネス・デューラーの訴えで停止され、結局は一時刊行禁止の判決が下された(注2)。ゼーバルトはそれでも刊行し、市参事会は販売禁止、逮捕、印刷物の差し押さえを命じた。ゼーバルトは逃亡し、フランクフルト・アム・マインに腰を落ち着けることになる。その後、この不肖の弟子たる版画家は、ニュルンベルクの外からその市場を狙っていくつもの農民祝祭版画を作った。はたして、このような農民祝祭版画は、どのような社会状況下で、どのような意図で制作/受容されたのだろうか。本報告では農民祝祭版画中もっとも大規模な《ケルミス大版画》〔図1〕をとりあげることで、その目的に迫りたいと考える。― 21 ―③ 宗教改革期ニュルンベルクの農民祝祭版画の研究─デューラーとその弟子たち─

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