― 311 ―ためには、新聞紙面を日めくりで追う必要があり、1年という限られた研究期間の中では、例えば『沖縄朝日新聞』や沖縄県立図書館に所蔵されている各種新聞切抜帳について全てを確認することは出来なかった。これらの資料および雑誌資料については今後とも継続して調査を進めていきたい。とはいえ、今回収集できた資料だけでも、沖縄を訪れた画家および沖縄の美術教師の数は相当な数に上り、総数921件のデータとなっている。時代別の内訳を示すと明治期については256件、大正期が427件、昭和期が238件となる。その一覧については文末に〔表1〕(鹿島美術財団注)として示す。明治期の256件という数字については、沖縄を訪問した美術家の数自体が少ないことや、大正期や昭和期に比して本土における展覧会で沖縄を主題とした作品がそう多く生み出されなかったことが要因として考えられる。また、この時期に沖縄県内で発行されていた新聞資料の特徴としては、沖縄へ赴任した美術教師に関する記事が多く見受けられる点があげられるであろう。大正期の記事数が他の時期に比して多い要因としては、県内の新聞資料が比較的多く残されていることや、文展をはじめとする官立の展覧会や在野の院展等において沖縄主題の作品が徐々に増加し、それらの作品の入選記事等が各種新聞に掲載されたことがあげられよう。昭和期の記事が最も少ない点については、今回調査出来た年代が昭和16年(1941)までであることや、沖縄で発行されていた新聞資料の多くが現存しないことが要因としてあげられる。しかし、昭和期の各種展覧会における沖縄関連の作品の数が、それ以前の時期に比べて増加していることからすれば(注3)、昭和戦前期に沖縄を訪れた画家や、沖縄出身画家の動向に関する事項は大正期を大幅に超えると予想される。それらの事項については今後、さらに調査領域をひろげて資料を収集する必要があると思われる。沖縄の美術教師たち明治期の沖縄の新聞では美術教師の紹介記事が多く確認できる。彼等の多くは琉球王府時代の絵師の流れを汲む沖縄の絵師ではなく、本土より赴任した教師たちであった。それらの美術教師については金子一夫および新城栄徳によって調査されているが(注4)、今回の調査では、明治29年(1896)に沖縄に赴任した山口辰吉に関する記事が他の美術教師に関する記事に比べて圧倒的に多いことが判明した。山口辰吉(号:瑞雨)は、明治29年(1896)に沖縄県へ赴任し、師範学校および中
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