― 312 ―学校で図画教師を務めた。山口は、慶応3年(1867)に栃木県喜連川に生まれ、平福穂庵に師事した画家である。山口の赴任に際して『琉球教育』は「県下毛筆画是より以て盛んなるに至るべし」と記すが、実際にこれ以降、沖縄県内の教育現場では鉛筆画よりも毛筆画が主流となったようである(注5)。明治30年代の山口は、主に日本美術協会主催の展覧会や博覧会を中心に作品を出品している。明治33年(1900)の同会主催による秋季美術展覧会に《沖縄上流婦人図》を出品したことが新聞資料から確認できるが、この当時から、沖縄の風俗を描く代表的な画家であるということが中央の画壇においても広く認識されていたようである(注6)。山口は県内においては明治34年(1901)に沖縄学術研究会に参加し、明治36年(1903)には沖縄絵画同好会を結成する。翌年、同志図画研究会を結成し会長に就任した(注7)。明治41年(1908)には県内の他の美術教師や画家と共に丹青協会を結成し、翌年には会長を務めた。明治45年(1912)県立師範学校を辞職。暫く沖縄に滞在した後、名古屋へ渡り、昭和8年(1933)に没している。最晩年には「知堂」という号を持つ仏画制作者としても知られていたらしい(注8)。山口の県内における活躍に比して、明治34年(1901)に沖縄へ赴任した山本森之助に関しては当時の県内の新聞資料ではほとんど見出せない。しかし、山本が白馬会へと出品した《雲の峯》(第6回)や《首里の夕月》(第7回)は中央の画壇では高い評価をうけていたことが分かる。山本が明治36年(1903)に沖縄を離れて後、沖縄県立中学校には神子鉄雄、宇和川通喩、岸畑久吉、関屋敬次などの名が新聞資料から確認できる。その他の図画教師としては、県立中学では、園田英吉、師範学校では、源河朝達、西銘生楽、工業徒弟学校では国友朝次郎、第二中学では比嘉景常の名が資料より確認できる。明治42年(1909)2月28日付『沖縄毎日新聞』に東京美術学校卒業生の就職斡旋記事が確認できる(注9)。山本森之助の赴任以降、樋口留太郎までの美術教師達が東京美術学校出身であるのは、このような依頼によるものであろうと予測される。沖縄へ赴任したこれら美術教師達がどのような作品を描いたのかについては、山口辰吉および山本森之助に関してはある程度調査がなされているが、その他の美術教師達も、例えば岸畑久吉は明治45年(1912)の第1回光風会展に《沖縄の夏》、樋渡留太郎は大正7年(1918)年の同展に《琉球の墓》《夜の豚市場 琉球にて》等の沖縄の風景画を出品し、沖縄イメージを継続的に中央の画壇へ流布させる役割を担ったと考えられる。
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