鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 313 ―沖縄を訪れた画家と沖縄出身画家明治期新聞記事でたどれる範囲では、最も早い時期に沖縄を訪れた画家として、明治22年(1889)に四谷延陵と神田朔山が沖縄を訪れたことを確認することが出来る(注10)。これ以降、明治32年(1899)には細密絵師佐々木青岳が沖縄を訪問し同地で展覧会を開催した(注11)。しかし、上述の画家をのぞけば、明治30年代を通じて本土の新聞記事では山口辰吉や山本森之助の展覧会出品作品に関する記事は見受けられるものの、沖縄を訪問した画家についての資料は見出せない。また、沖縄の新聞においても美術教師以外の来沖画家についての記事は確認できない。明治40年以降になると、沖縄を訪問する画家についての新聞記事が多く見受けられるようになる。まず、明治42年(1909)にラングドン・ウォーナーが来沖し、甲辰小学校において講演会を行ったことが記事に残されている(注12)。続いて明治45年(1912)1月に太平洋画会の吉田博、中川八郎、石川寅二が沖縄を訪問した。彼等の沖縄訪問については既に永山多貴子や島袋和幸によって調査されているが(注13)、『琉球新報』『沖縄毎日新聞』にも彼等の県内における記事が多数掲載されていることが今回の調査で判明した。大正期大正2年(1913)には日本画家である志佐墨鳳が沖縄を視察する目的で来沖し(注14)、彫刻家池田勇八が東京勧業博覧会に《琉球水汲場》を出品した記事が確認できるが(注15)、それぞれの沖縄との関わりについては不明である。同年に来沖した水上泰生は、翌年の文展で《琉球の花》を出品し三等賞を受賞している。同じく大正2年(1913)頃に来沖したと思われる岡田雪窓も《琉球所見》が入選を果たし、褒状を受けている(注16)。他の文展作家では岡田孤村が大正4年(1915)の文展へ《琉球つばめ》を出品し入選を果たしている。大正3年(1914)には漫画家小林錦水が来沖し、県内で展覧会を開催している(注17)。また実際に沖縄を訪問したかどうかは不明ながら、大正5年(1916)の1月より川瀬巴水が『琉球新報』の挿絵を担当していることが判明した(注18)。この年は、富田渓仙や小杉未醒が沖縄を訪れ、同年の院展にそれぞれ《沖縄三題》、《南島》を出品している。未醒の沖縄訪問は比較的知られているが、富田渓仙については、沖縄訪問の時期についてはそれほど明確ではないと思われる。大正5年(1916)4月に琉球藩最後の国王尚泰の息子である尚昌が沖縄へ帰省し、それを伝える『琉球新報』に尚

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