― 314 ―昌の同行者として「富田深山」という名が記されているが(注19)、これは「渓仙」の誤記である可能性が高い。そうであれば、彼は尚昌と共に沖縄を訪問したことが分かる。尚昌の夫人である百子は小笠原長幹の娘で、当時満谷国四郎や岡野栄に師事していた。大正8年(1919)の満谷国四郎の沖縄訪問もこのような尚家を通じた人脈を背景になされたものと予想される。大正中期から後期にかけては、この他にも足立源一郎、柴原魏象、酒井三良、矢尾大華、島田佳矣、大垣南湖、木内直秋、篠原勇、吉永瑞甫の名が確認でき、ヴォーリズや伊東忠太、濱田庄司も沖縄を訪れていることが記されている。昭和戦前期昭和期には、各種展覧会において沖縄を題材とした作品が数多く出品されていることは先に述べたが、この時期は帝展や文展をはじめとする官設展覧会だけではなく在野の団体に幅広く沖縄関連の作品が見受けられることが特徴だと言える。樋口富麿は昭和3年(1928)の院展に《南国の装ひ》を出品するが、その後も昭和14年(1939)の大日美術展に《琉球紅型》を出品している。官展系では、菊池契月が昭和3年(1929)の帝展に《南波照間》を出品、昭和7年(1932)の帝展には千地養巣が《琉球の女》を出品している。同年には落合朗風も青龍社展に《那覇の麗人》、翌年の個展にも《那覇三題》を出品している。昭和戦前期にはこのように複数年にわたって沖縄の風物を描く画家がみられるのが特徴であるといえる。昭和10年代の沖縄で発行された新聞中、来沖画家に関する記事が最も多く残されているのが藤田嗣治、竹谷富士雄、加治屋隆二の沖縄訪問に関するものである。藤田の沖縄訪問は既に多く論じられているが、当初は藤田ではなく、鳥居敏文が沖縄を訪問する予定であったようである(注20)。藤田の来沖時にはほぼ連日のように藤田一行の動向が新聞紙面で伝えられていることからも、当時の沖縄における藤田への関心の高さが窺える。この時期に沖縄を訪問した画家としては他に、鳥海青児、山川清、前田藤四郎、浅野孟府、大誠一、馬場完、仙波均平、中川伊作、山崎省三、伊藤清永、棟方志功、村松乙彦などがあげられる。沖縄出身画家明治30年代の新聞資料には沖縄出身画家(美術教師を含む)として、兼城昌興や比嘉華山、仲宗根清、仲村渠喜俊、渡嘉敷唯功らの名が確認することができる。比嘉華山は山口辰吉と共に第五回内国勧業博覧会に入選を果たしており、作品は《琉球遊
元のページ ../index.html#325