鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 岡部昌幸「「芸術触媒」としての沖縄─描かれた沖縄と日本近代芸術の成立」『帝京史学』第20⑵ 高階絵里加「山本芳翠の沖縄訪問に関する一試論」『美術史』第144冊 美術史学会 1998 141−151頁、小林純子「小杉放菴と沖縄〜沖縄旅行時の日記と作品を通して〜」『沖縄県立芸術大学紀要』第16号 沖縄県立芸術大学 2008 11〜30頁⑷ 金子一夫『近代日本美術教育の研究 明治時代』中央公論美術出版 1992、新城栄徳「沖縄に― 315 ―⑶ 昭和期の各展覧会における沖縄関連の作品については、拙稿「投げかけられたまなざし─昭和初期の沖縄の表象について」『美術運動史研究会ニュース』86号 美術運動史研究会 2007 所収の一覧表を参照されたい。⑸ 「展覧会に於ける二日間㈢」『琉球新報』1899年6月19日2面 沖縄県中頭郡教育品展覧会にお女》《苺売女》の二点だったようで(注21)、前者は開会後すぐに売約になったことが伝えられている(注22)。明治40年代には、その他に渡嘉敷唯選や長嶺華国の名を確認することができる。大正期に入ると、東京美術学校の卒業生である西銘生楽や山田眞山に関する記事が確認出来る。先に述べた小杉未醒の沖縄訪問の際に山田は共に球陽座の芝居を観劇していることがわかる(注23)。また大正11年(1922)には、大正3年(1914)の第一回二科展に《柳の町》を出品した伊是名朝義と大杉栄との交流を伝える記事が掲載されているが、そのことは余り知られてない事項だと思われる(注24)。昭和戦前期には、沖縄出身の画家が多く掲載されるようになるが、初期には春陽会での入選を果たした渡嘉敷唯仁に関する記事が見受けられる。後半になると我部政達、南風原朝光、大嶺政寛、名渡山愛順、安次嶺金正などの名を確認することができる。藤田一行の案内を務めたのは南風原朝光であり、同様に伊藤清永の来沖時の案内は安次嶺金正が務めた。また、鳥海青児の沖縄訪問は大嶺政寛の招きによってなされたという。昭和期にはいるとこのような本土の画家と沖縄の画家との交流が活発になるが、これらの要因や沖縄の画家たちに本土の画家がどのような影響を与えたかについても、今回の調査で得られたデータを基に考察を進めていく必要があると思われる。今回の研究助成によって、明治後期から大正中期年代における沖縄関連作品はある程度絞り込むことはできたように思われる。今後は、これらのデータを基にどのような作品が描かれ、どのような背景で画家が沖縄を訪れたかを個別の画家毎に調査し、その行程と生み出された作品を具体的にたどる必要があると思われる。号 帝京大学文学部 2004 87−143頁来た画家たち─近代沖縄美術史ノート」『彷書月刊』第6巻3号 弘隆社 1990 14−15頁

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