競走、流鏑馬などである。農民祝祭版画の受容に関して同時代人の発言を聞いてみよう。ニュルンベルクの人文主義者にして医師ヴァルター・ヘルマン・リュッフは1548年出版の『ドイツのウィトルウィウス』で次のように語っている。「垣根の後ろで大便や嘔吐をする泥酔した農民の絵を見て喜びを感ずるのはどのような人だろうか?このような胸くそ悪いものは、無作法で、百姓のような感受性をもち、人間らしいなどとはとても呼べない人にしか、喜びを与えなかろう。恥ずかしいことに、今日では、絵で理性ある人を恐怖に陥れる、このような非人間的なものを描く人が大勢いるのだ。(注4)」《ケルミス大版画》にも居酒屋の左にとぐろを巻いた糞が小さく見え、中央部手前には長椅子に寝そべりながら吐いている農民が描かれている〔図2〕。糞便と嘔吐は典型的に大衆的なモティーフである。つまり《ケルミス大版画》も、リュッフのいう「胸くそ悪い」絵に入ると考えてよかろう。このような版画が飾られている様子を描いた絵に、コルネリス・マッセイスの銅版画《旅籠屋の二組のカップル》(注5)がある〔図3〕。中央壁面に貼られた画中版画〔図4〕では、鶏が二羽うろついている農村光景の中、男が中腰になっている。男は、尻の下に丸い物が描かれていることから判断して、大便中と思われる。前景に目を移すと、右端には阿呆が座し、円卓の後ろの男女は接吻をし、左では男が女の肩に手をかけている。その左に跪いている女はこっそり男の財布をまさぐっており、老婆は左手に財布を握っている。すでにスリ盗った財布なのだろう。女の色香に誘惑された男はこうして丸裸にされるのである。ここは旅籠屋といっても曖昧宿の類いに違いない。野卑な版画を貼る場所としては、このような店がふさわしかったのかもしれない。この版画からは、『ドイツのウィトルウィウス』で非難された「大便や嘔吐をする泥酔した農民の絵を見て喜びを感ずる」人が16世紀には確実に存在したということが分かろう。著者リュッフは「どのような人だろうか?」などと知らぬ振りをしているが、自分とは異なる階層の無縁の人たちであることを強調しようとしていることがあからさまである。彼は、このような「絵に喜びを感ずる」人がいることを知っていて、しらを切っているのだ。では、《ケルミス大版画》のような祝祭光景の画中版画を描いた絵はあるのだろうか。現在少なくとも二例指摘されている。第一にネーデルラントの版画家フランス・ハイスの銅版画《リュート職人》〔図5〕である(注6)。リュート製作工房の暖炉の上に、ゼーバルト・ベーハムの《メーゲルドルフのケルミス》〔図6〕とよく似た横― 22 ―
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