1.ジョシュア・レノルズ《喜劇と悲劇の間のガリック》〔図3〕 所謂「グランド・スタイル」による肖像画を得意としたジョシュア・レノルズは、俳優デイヴィット・ガリックの肖像《悲劇と喜劇の間のガリック》(1764)で、二つの異なる戯曲の擬人像に挟まれる俳優の肖像を分かれ道のヘラクレスに準えて表現した(注4)。天を指し示す「悲劇」の擬人像が「美徳」、ガリックの腕をとって戯れる「喜劇」の擬人像が「悪徳」の形を借りているのは明らかである。だが美徳と悪徳のいずれかの選択に迫られるヘラクレスと異なり、俳優であるガリックは両手を広げ、肩を竦めてあっさりと選択を放棄している。そのおどけた身ぶりは、憂愁をおびたヘラクレスの表情とは対極的だ。この作品には更なる伏線が敷かれている。「悲劇」は古典的なプロフィールを見せ、「喜劇」の相貌にはスフマート技法を用いて豊かな陰影が施されている。かつて美術アカデミー内で盛んに議論された「素描派対色彩派」論争の不毛を笑うかのように、レノルズは、対立する二つの価値の優劣を超越し、異なりはするがともに相補的・相対的な関係において提示しているのである。― 334 ―仕掛けでもあろう。カラッチがこの図像伝統に根付かせたものに、いまひとつ重要な特質がある。ヘラクレスを、ギリシャ・ヘレニズム期の造形に見られるような逞しい髭のある壮年期の男としてではなく、メルクリウスのような若者の姿であらわしたのである。パノフスキーは、このメルクリウスのタイプのヘラクレスと、ラファエロの《スキピオの夢》〔図2〕とのイメージの重複を指摘している(注3)。剣と書物を捧げ持つ質素な身なりの女性と、鮮やかな色の衣裳をまとい、花を差し出す金髪の女性との間でまどろむ若者を表わすこの作品の寓意的性格は、美徳と悪徳との間で逡巡するヘラクレスの置かれた状況と酷似している。だがラファエロ作品において、「スキピオ」を挟む二人の女性像は、ヘラクレスが直面する「美徳」と「悪徳」という言葉の鋭い対比的価値ほどには優劣を明確にしていない。特に「快楽」を指し示している女性の性的な誘惑といった側面は強調されず、我々には、ただ二人の女性像が、対極的ではあるが相補い合い、均衡を保つために互いを必要としているようにさえ見えるのである。こうした二人の女性像の等価性、交換可能性は、「分かれ道のヘラクレス」の図像にも影響を与え、特に18世紀に生まれたこの図像の弁証法的ヴァリエーションにおいて、一層強調されるようになるのである。以下にその例を示す。
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