鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書』で、次のように祝祭を批判する。「すべての祭日が除かれ、ただ日曜日だけが残されるべきであるということを取り上げたい。しかし、聖母及び諸聖人の祭日が残されることを望むなら、それはすべて日曜日に移されるか、あるいはただ朝のミサで行われるようにしなければならない。・・・そこで何よりもまず、ケルミスは、居酒屋や年の市や演技場以外に他の何ものをもよくしないばかりでなく、神の不名誉と魂の不幸を増加するにすぎないから、それを私たちは全く根絶すべきだ。(注10)」ニュルンベルクでは祝日、祭日に関する新しい政策の検討を進め、4月20日に不要な祝日を中止するための協議が始まり、5月24日市参事会は祝日を削除する命令を発布した。それによれば、「多くの祝日は…冒瀆、飲酒、怒り、快楽、姦淫、喧嘩、殺人、騒動など、民衆の罪深き悪徳の原因となるので、神の聖なる言葉への不誠実を引き起こしてきた(注12)」。これまでニュルンベルクの祝日には、日曜日、ケルミス、聖堂の名義聖人の記念日などが含まれていた。新しいニュルンベルクの祝日条令は、日曜と20の祝日のみに限定した。20のうち三つはキリストに捧げられた、クリスマスとその翌日の第二クリスマス、昇天祭である。また聖母に捧げられた祝日は、受胎告知、お清め、被昇天の三つであった。さらに洗礼者聖ヨハネ、十二使徒、聖シュテファンと聖ヨハネの合同祝日を含む14の聖人祝日、つまり合計して20の祝日である。復活祭と聖霊降臨祭は日曜日に祝われた。そしてケルミスは廃止された。以前には49の宗教祝日があったのだから、ルター派の改革によって祝日は半分以下に減らされたのである。ニュルンベルクの夏祭は、伝統的にケルミスが主役だった。市壁内でのケルミスは少なくとも三つの場所で祝われた。中の島のシュット島でのケルミスが初夏のペンテコスト祝日(5月10日〜6月13日)で、聖ゼーバルト聖堂のケルミスが8月末、聖ウルリヒ聖堂の織工のケルミスが7月4日だった。ケルミスは、日曜日か祝日に始まり、8日間ほど連続した。ところが1525年に市壁内のケルミスは禁止された。ケルミス禁止は、ニュルンベルクが支配する市壁外の農村にも適用されるはずだったが、周辺の1525年3月にルター支持を明確にしたニュルンベルクは、ケルミスに対してどのような態度をとったのだろうか。ニュルンベルクの祝祭政策を簡単に追跡してみよう(注11)。― 24 ―

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