鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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田園地帯では、七つのケルミスが継続していた。1526年8月末、到頭ニュルンベルク市参事会は、市と一緒に開催される場合を除いて、それらのケルミスを禁止した。市壁外の七つのケルミスのうち、市壁東方4マイルほどに位置するメーゲルドルフのケルミスはペンテコスト時に開催された。このケルミスにはニュルンベルク市民の約半分が訪れたといわれる。このケルミス禁止は、布告では「これからはすべての村落でケルミスは廃止されるが、普通の市を断念、廃止することはない」と記された。市は継続したのである。市が抜け道になり、二つの市/ケルミスが継続した。メーゲルドルフのケルミスは1528年頃、農民祝祭版画の中でもっとも早く作られた《メーゲルドルフのケルミス》でその名を冠されていることからも分かるように、ニュルンベルク周辺でもっともにぎわったケルミスである。メーゲルドルフには聖ニコラウス■ウルリヒ聖堂という15世紀に完成したゴシック様式の聖堂があるが(注13)、《ケルミス大版画》左上に描かれているのが、その聖堂ではあるまいか〔図13〕。部分的な等高式、時計塔の形など、全体の印象は聖ニコラウス■ウルリヒ聖堂〔図14〕に良く似ているのである。細部は異なるとはいえ、この版画が作られた時期ゼーバルト・ベーハムがフランクフルトに住んでいたことを考慮すると、記憶をもとにして描いたのだろうから、相違も当然のことといえよう。《ケルミス大版画》は、当時、ニュルンベルク市参事会の条例で禁止されたケルミスをいまだに市を口実にして開催していたメーゲルドルフのケルミスを描いたものではないかと推察する。ついているが、その第一詩はこうである。 「ある日おいらはケルミスに行った。 メーゲルドルフのケルミスへ。そこでは 百姓どもが大酒を飲んでいた。 大きな旅籠で。(注14)」第三詩は長椅子に倒れて吐く農民、第四詩は女と踊って抱きしめる粉屋を詠っている。大酒を飲み、椅子の上に倒れて、吐き、踊り、抱くとは、まさしく《ケルミス大版画》の世界ではないか。ザックスがメーゲルドルフのケルミスを詠んだ世界は、《ケルミス大版画》の世界と合致する。そしてメーゲルドルフのケルミスは、この版画が作られた1535年、ニュルンベルク周辺ではただ二つしかないケルミスの一つだったのである。1528年頃に制作された《メーゲルドルフのケルミス》にはハンス・ザックスの詩が― 25 ―

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