鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
371/620

3.「酒呑童子絵巻」からの自立と展開続いて第三類のような、全体の景観性を重視した瀟洒な作風を引き継ぎつつ、新た― 360 ―【第四類】⑬ 呉春筆「大江山鬼賊退治図」京都国立博物館、六曲一双⑭ 東東洋筆「酒呑童子図屏風」東北歴史博物館、六曲一双⑮ 横山清暉筆「大江山鬼退治図屏風」奈良県立美術館、六曲一双〔図9〕の量産を目的とする」(注9)ものであることを指摘する。先の第二類で挙げた、岩佐派の関与が考えられる一連の作例と、氏の指摘とが正に重なる事例であることはいうまでもない。さらに第三類の作例をめぐっても、岩佐派とはまた異なるスタイルの絵師による量産が行われていたことが窺われる。これまで、酒呑童子絵に関する図様の継承に関しては、狩野派の粉本学習という範疇で語られることに終始してきたといえる。しかし屏風作例の量産という事例は、本説話の受容の広がりを如実に示すとともに、図様の「定型化」に関して、新たな視点をもった興味深いトピックとなりうるだろう。な展開を加えている作例を第四類として挙げる。いずれも四条派の絵師による18世紀以降の作例である。呉春本はサントリー本の図様に依拠しながらも、独自の要素を附加しており、酒呑童子の表情などに滑稽味も漂う、呉春特有の酒脱な雰囲気を見せている。また狩野派より四条派へ転向した東東洋による作例は、文化年間(1804〜1817)頃の制作と見られ『前太平記』や芸能の諸作例にみるエピソードに取材していることが明らかにされている(注10)。また呉春本が『前太平記』の本文を忠実に絵画化しているのに対して、東東洋本はサントリー本に近づける方向でモチーフを追加変更し、呉春本とは逆の場面配置を成すことも合わせて指摘されている。清暉本は「擬月渓翁所画 清暉」の款記によって呉春本を写した作例として知られる天保10年(1839)のもの。淡彩で空白を生かした穏やかな図様も呉春本と同一である(注11)。これら第四類の作例からは、四条派の画家達の中にも一つの画題として本屏風が定着していた様を知ることができる。酒呑童子屏風という対象には、狩野派のみならず岩佐派、四条派といった様々な画派による、同一主題をめぐる展開を見いだせるのである。

元のページ  ../index.html#371

このブックを見る