― 366 ―㉞ 韓国のいわゆる兜跋毘沙門天に関する一考察研 究 者:武蔵野美術大学 非常勤講師 陸 載 和─はじめに毘沙門天はインドにおいて北方を守護するクーベラ神(注1)を根源とし、仏教に受け入れられ、四天王の一員として後に多聞天と称されるようになった守護神である。一般には四天王から独立し、信仰された多聞天を毘沙門天と称する場合が多い。また、日本では毘沙門天の中で左右に二鬼すなわち尼藍婆・毘藍婆を伴う地天に支えられ、頭上に羽翼装飾を表した宝冠を被るなどの図像を示すものを兜跋毘沙門天と称し、その名称は一般にも浸透しており、多くの研究者による研究がなされてきた(注2)。しかし、兜跋毘沙門天という名称は、インドや中国、韓国など日本以外の地域の文献および作例からは確認できないものである。兜跋毘沙門天の名称が確認できる日本の文献としては、心覚(1180年没)■『別尊雑記』巻五四多聞天の項(都抜毘沙門)や永徳3年(1383)の年記の知られる『九院仏閣抄』(兜跋国利益毘沙門形像)、心覚■『鵝珠鈔』巻上二(兜抜毘沙門事)、興然の『図像集』(兜跋毘沙門)、建長元年(1249)の『阿娑縛抄』(兜秡毘沙門事)、13世紀後半の僧と思われる教舜が■した『秘鈔口決』(兜抜毘沙門事)、光宗が■した『渓嵐拾葉集』(大正蔵七六巻、延慶2年(1309)以前)巻三十八多聞天の項(都抜毘沙門)などが挙げられる。この文献の中では「都抜」と「兜抜」、「兜跋」の三つの名称が確認できるが、例に挙げた全ての文献は12世紀以後日本で編纂されたものであり、インド、中国及び韓国の文献資料においてはその例を見出せないのが現状である。岡田健氏によると、このような名称が用いられるようになったのは、明治40年から大正年間のことであるという(注3)。日本においても近年は「西域的毘沙門天(注4)」あるいは「地天女=トバツ形をした毘沙門天(注5)」のような用語を用いる研究者もいるなど、その名称は定まっていない。本稿においても、兜跋毘沙門天という名称を便宜上用いたが、前述のように、日本国内における造語の可能性があることから、中国や韓国の作例に対しては本来は用いるべきではないであろう。ただし、日本においては一般的に使用されており、図像的特徴を認識しやすいことから、「いわゆる兜跋毘沙門天」と表記し、本稿を進めることとする。このようないわゆる兜跋毘沙門天像は、中国や日本の作例は多く報告されてきたのに対し、韓国における作例については触れられてこなかった。しかし、筆者が韓国の全域に散在する四天王像の網羅的研究を進める中で、高麗初期に制作された石造浮■
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