鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.中国におけるいわゆる兜跋毘沙門天像の図像韓国のいわゆる兜跋毘沙門天像の造像例を検討する前に中国の作例に触れながら、その図像を確認しておきたい。中国にも8世紀以前に■るものは現存せず、いわゆる兜跋毘沙門天像が盛んに造像されたのは盛唐あるいは中唐以降のことであると思われる。その中で古い作例に属する8世紀後半の安西楡林窟第25窟前室東壁北側北方天王図からは、尼藍婆・毘藍婆を伴う地天に支えられて立つこと、宝冠(表面の剥落が激しく、羽翼装飾は確認できない)を被ること、外套様鎧を身にまとうこと、三叉戟を手に執ること、腰に剣を佩用することなどの図像的特徴がみられる。8世紀後半の莫高窟第154窟北壁東側弥勒浄土変相にあらわされている天王図や大英博物館蔵スタイン請来敦煌毘沙門天画像からも尼藍婆・毘藍婆の姿はみられないものの、ほぼ同様の図像が確認できる。また、11世紀の蘇州博物館蔵瑞光寺塔発見毘沙門天立像(北宋)の場合は、右手の持物が欠損しており、三叉戟は確認できないが、羽翼装飾付きの宝冠を被り、二鬼を伴う地天に支えられ立つなど同様の図像がみられる。また、四川省地域においても、少々相違はあるが、同様の図像をみせる作例が多数確認できる(注6)ことから、盛唐以降中国においていわゆる兜跋毘沙門天像が盛んに造像されたことがうかがえる。ここにみられる図像的特徴を念頭に置きながら、韓国で確認できるいわゆる兜跋毘沙門天について検討してみよう。2.韓国のいわゆる兜跋毘沙門天像中国おいては四川省を中心に四天王の一尊ではなく、単独尊として造像されたいわゆる兜跋毘沙門天の図像を示す作例が多く確認されており、前述したように日本においても単独尊として造像された多くのいわゆる兜跋毘沙門天像が報告されている。しかし、筆者が確認した韓国のいわゆる兜跋毘沙門天像は、いずれも四天王の一尊すなわち多聞天としてあらわされている。― 367 ―の塔身あるいは石燈の火舎石の四面にあらわされた四天王像の中に、いわゆる兜跋毘沙門天と同様あるいは類似する図像を確認することができた。そこで、本稿では韓国におけるいわゆる兜跋毘沙門天の図像の特徴をまとめることにより、韓国におけるその図像の受容のあり方について考察してみたい。また、それを通じていわゆる兜跋毘沙門天が有する性格についても改めて考察してみたい。

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