― 369 ―像をあらわす。四天王像はいずれも武装形で、光背と台座の表現もみられず、鎧などは陽刻線を用いて簡略にあらわしており、全体的に形式化が進んでいることがわかる。多聞天像〔図3・4〕は、正面を向いて両脚を大きく広げて直立する。頭部に三山形の宝冠(羽翼装飾をあらわさない)を被る。右手は屈臂し肩の高さまで宝塔を捧げ、左手で素直に槍を執る。本像はいわゆる兜跋毘沙門天の特徴である地天や三叉戟などが直接表現されてはいないが、まるで両手に捧げられているように両脚を大きく広げていることや他の像においても台座の表現が省略されていることから、両脚の下に地天が付く図像の省略形である可能性を考えている。そのため本像も、いわゆる兜跋毘沙門天の図像を有する尊像として取り上げた。なお、他の三尊は、いずれも頭部に三面髻飾を付ける。持国天像は正面を向いて両脚を広げて立ち、右手は右上向けに剣(中央に溝が彫られており、密教の宝剣である可能性も考えられる)を握り、左手を剣の中心部に添える。増長天像は右手で腹前において右上向けに剣を執り、 左手は下に伸ばして左足の甲に垂直に乗せた三鈷杵を執る。広目天像は両手ともに屈臂し胸前で吹き矢を執る。⑶ 報徳寺石燈の多聞天像忠清南道礼山郡徳山面上伽里に所在する報徳寺の石燈(塔身高86.5cm、塔身幅31.0cm、忠清南道有形文化財第183号)は、本来報徳寺の現在の場所から2km程離れた山の中腹にある南延君墓の近くに位置していた。その場所には伽倻寺という寺院があったが、朝鮮末期に報徳寺と名を改めたという。現在報徳寺の境内に残る石燈はその場所から移されたものである。この石燈は火舎石以外は後補であり、制作年代の特定が難しいが、火舎石の四維に設けられている四天王像の浮彫が浅いことや甲冑の表現などに形式化が顕著にみられることなどを考えると、高麗初期の11世紀に属する作例である可能性が高い。四天王像は、いずれも甲冑を身にまとう武装形であるが、全体的に摩滅がおよび、細部の確認が困難な状態である。また、頭光の輪郭線が確認できず、当初から頭光はあらわされていなかったと思われる。多聞天像〔図5・6、総高78.5cm、像高62.5cm、顎〜頭頂14.5cm、顎〜髪際10.5cm〕は、両側に尼藍婆と毘藍婆を伴う地天女に支えられて立つ。右手は屈臂して肩で天衣を握るようにみえるが、詳細は確認できない。左手は屈臂し宝塔を捧げる。宝冠や三叉戟などの表現はみられない。なお、その他の三尊は以下の通りである。持国天像(像高61.0cm)は、邪鬼の両手
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