鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 370 ―に捧げられて立つ。右手は屈臂し肩高に天衣(?)を握り、左手は腹前において腰帯に当てる。増長天像(像高63.0cm)は、持国天と同様邪鬼の両手に捧げられて立つ。右手は腹前におき、左手は屈臂して肩高に挙げるが、両方とも持物の確認が難しい。広目天像(像高63.0cm)は、右足を邪鬼の頭部に、左足を邪鬼の肩に乗せて直立する。右手は屈臂し胸前において天衣を握っているようにみえるが、持物は定かでない。左手は左太腿まで伸ばして拳を握る。⑷ 根津美術館蔵石造浮■の多聞天像浮■の出土地や誰のために造営したものかなどに関しては不明な部分が多く、その制作年代を定めることは困難であるが、中台石にあらわされている竜や雲、宝珠などの様式が同じく中台石に竜などをあらわした前述の慶北大学校博物館蔵浮■や高達寺址元宗大師慧眞塔(高麗・977年頃)、高達寺址浮■よりは形式化が進んでないことを考えると10世紀中頃に制作されたと推測できる。四天王像はいずれも武装形を示しており、宝冠を被る。多聞天像〔図7〕は地天(二鬼の姿は確認できない)の両手に支えられて立つ。右手は三叉戟を執り、左手は屈臂し宝塔を捧げる。なお、他の三尊は持国天が右手で剣を持ち、増長天が両手で胸前において横に矢を持っている。以上考察したことから、韓国のいわゆる兜跋毘沙門天像は、単独尊ではなく、四天王の一尊として造像されたこと、また中国や日本の作例にみられるように様々な図像的特徴を備えているのではなく、その一部を借用し、簡略化されたものが多いこと、その造像時期は10世紀中頃以降、すなわち高麗初期に集中されており、その造像例はさほど多くないことがわかる。─むすびにかえて従来京都・東寺蔵木造毘沙門天立像に代表されるいわゆる兜跋毘沙門天の図像は、韓国には伝来しなかったとされてきた。しかし、韓国で造像された四天王の一尊である多聞天像からいわゆる兜跋毘沙門天の図像が確認でき、日本とは受容背景がことなるものの、韓国にもその図像が受容されていたことが判明した。また、その図像は日本の作例に比べ、図像的特徴が細部まで明確に規定されていなかったようである。すなわち、両側に尼藍婆と毘藍婆を伴う地天に捧げられて立つ、左手に宝塔を捧げもつ、持国天・増長天・広目天の三尊に比べて特徴的宝冠(多くは三山冠)を被るという図

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