注⑴ インドにおいて、クーベラ神は守護神の他、財宝神としての性格を有する神であるが、それは毘沙門天とは別の系統として発展し、片手で戟や財布を持ち太鼓腹を表す像として造像され、後に片手で財宝の玉を吐き出すマングースの財布を握るジャンバラ像へと変化していく。そのような図像は中国文化圏のチベットにも影響を与え、大歴11年(776)に造営が始まった安西楡林窟第15窟の壁画に表された宝珠を吐くマングースの首を摑んだ毘沙門天のような作例を残す。(松浦正昭『日本の美術315 毘沙門天像』至文堂,1992年,pp. 22〜24)⑵ 「兜跋毘沙門天像」に関しては以下の論考がある。― 371 ―像的特徴は際立っているものの、その他の点については作例ごとの差が認められるのである。特に興寺石造浮■の多聞天像においては、いわゆる兜跋毘沙門天の図像をそのままではなく、その図像を規範とした痕跡のみが僅かにうかがえるにとどまっている。このような簡略な形態を以てあらわされたのは、高麗以後における仏像表現の形式化と軌を一にするものと考えられる。なお、中国および日本のいわゆる兜跋毘沙門天像にしばしば見出せる羽翼装飾の付いた宝冠、いわゆる外套様鎧(注7)は、韓国の作例には明確に認められず、むしろ、このような甲冑の形式は高麗時代の梵釈四天王鈴にあらわされた四天王像に(多くは簡略化された甲制として)認められることが多い。以上のように、韓国におけるいわゆる兜跋毘沙門天像は、四天王のうちの多聞天像として造像されるものである。また、統一新羅時代までの多聞天(毘沙門天)の単独信仰は確認できないが、高麗時代の中央博物館蔵毘沙門天鏡像(12世紀)がしばしば制作されていたことは確かであろう。しかし、この場合の毘沙門天は、左手に宝塔を持つが、通常の着甲形式で宝冠を被り、両側に尼藍婆と毘藍婆を伴う地天は足下に表現されない。すなわち、韓国におけるいわゆる兜跋毘沙門天の図像は、現存作例からみて、高麗前期の四天王のうち多聞天像の図像の一つのヴァリエーションとして採用されるにとどまっているのである。宮治昭「兜跋毘沙門天の成立」『仏像学入門』春秋社,2004年北進一「毘沙門天像の変遷」『世界美術全集 東洋編第15巻─中央アジア』小学館,2002年北進一「四川石窟における毘沙門天像の諸相─邛峡石筍山石窟第28号龕像と大足北山石窟仏湾第5号龕像を中心に─」『和光大学表現学部紀要』第3号,2002年金香淑「中国四川省における毘沙門天図像の概観─資料の紹介─」『名古屋大学古川総合研究資料館報告』第12号,1996年田辺勝美「出家踰城図のイラン系武人像再考」『古代オリエント博物館紀要』17号,古代オリエント博物館,1996年田辺勝美「多聞天という名称に関する一考察」『大和文華』第98号,大和文華館,1997年
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