鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.ブルターニュのイメージの変遷─18世紀末から19世紀後半までフランスにおいて市民革命が起きた18世紀末より、国内におけるブルターニュに対する眼差しが生まれるが、その背景として、1790年代から開始されるブルターニュ地方に対する民俗学的調査がある。これは実際にブルターニュ地方各地域を踏査し、歴史、芸術、文化、言語などを調査・収集するものだった。当時は、ブルターニュのみならず、太古に生きた人々の純粋な精神が宿るとして各地で民謡収集が展開される時期にあたり、特にヨーロッパの「起源」と考えられる「古代ケルト」人の民謡収集が、スコットランドやアイルランドで始められていた。ブルターニュの調査を管轄していたのは、ケルト・アカデミーと称する協会であり、その主目的はフランスの「起源」であるガリアと地理的、言語的に同一視されるブルターニュの栄光を讃えることにあった(注5)。― 376 ―自己言及を強め、さらには1885年以来の自画像制作にも取り組んでいる。したがって本論では、ブルターニュに対する言説、他の画家のブルターニュ表象を踏まえた上でゴーギャンのブルターニュ表象を分析し、nostalgiaと自己追求の関係性を提示する。ケルト・アカデミーのトップに就いていたのはブルターニュ人のエリート層であり、なかでもフィニステール県カンペール出身のジャック・カンブリー(Jaques Cambry, 1749−1807)は、踏査報告をまとめた『フィニステール県への旅(Voyage dans le Finistère)』(1795)を刊行している。後にゴーギャンが訪れるポン=タヴァン村は、県都カンペールより南東に位置する村であるが、カンブリーは次のように描写している。…ここは、水の中、岩の上にあり、二つの高い山のふもとに位置する。山の表面には、風雨にさらされた花崗岩の塊がごろごろと散らばり、今まさに転がり落ちようとするかにみえる。こうした花崗岩は、藁葺き家の切り妻壁や、農家の小さな庭の石塀として役立つ。山を転がり落ちた岩は、川の流れを妨げ、川の水は多くの障害物を飛び越えていく。川岸の水車場は、車輪の車軸を固定させるのにこうした岩を利用する。これら岩は、木の橋でつながれる。…(注6)ここで描写されるのは、凹凸のある花崗岩が転がる山と、その岩が形作る風土の印象である。当時は人々の居住する地理的特質が人々の特質を決定すると考えられ、ブルターニュにおいては花崗岩の大地と人々の気質との重ね合わせがみられる(注7)。

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