鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 377 ―ただし19世紀も半ばになると、ブルターニュに対するイメージが徐々に変化する。ブリズー(Julien Auguste Pélage Brizeux, 1803−1858)やラヴィルマルケ(Théodore Hersart de la Villemarqué, 1815−1895)によるブルターニュの詩歌の提示は、カンブリーの示した海岸部の荒々しいブルターニュではなく、より内陸部における楽園的なブルターニュを押し出し、かつ、キリスト教につながる太古の信仰を受け継ぐ信仰深き人々としてのブルターニュ人を表現した(注8)。そして1850年代を経て絵画におけるブルターニュ描写が増える。すでに1820年代から、パリ郊外のフォンテーヌブローの森で風景画が描かれ始め、1850年にはミレー(Jean-François Millet, 1814−1875)が《種まく人》で田園における農民像をクローズアップした。そして、1854年にパリとブルターニュの首府レンヌが鉄道で結ばれると徐々に宿泊施設も整い始め、画家たちはブルターニュへと足を延ばす。このような都市からの流入に伴い、地域の特色を示す工夫が考えられた。なかでも機械織りの発展と生地の流通も相まって、民族衣装は特異性を示すものとして形成され、ブルターニュでは特に頭飾りの差別化が進んだ。さらに、巡礼免償を意味していたパルドン祭は、19世紀後半以降、むしろ自らの守護聖人に罪の赦しを請う祭と化し観光客が多く訪れるブルターニュの一大イベントとなる(注9)。こうした状況下での絵画におけるブルターニュ描写は、「野蛮」なイメージも残るものの、異なるイメージも提示した。1860年代から1880年代のパリのサロンに出品された絵画作品を調査した結果、例年ブルターニュを題材とする作品は30から40を数える。また絵画モチーフには、海岸、田園、結婚式、輪舞、パルドン祭、海藻採り、糸紡ぎ、洗濯、市場での物売り、カルナック他の巨石遺跡、ケルト伝説といったものが挙げられる(注10)。ここには、民族衣装を身につけた人々の自然との密接性が描かれているといえる。また、ポン=タヴァン芸術家村はアメリカ人芸術家たちによって形成されるが、そのきっかけを作ったヘンリー・ベーコン(Henry Bacon)は、1864年7月に訪れたポン=タヴァンを…それは、今まで見た中で一番素敵な村だった。いくつものピクチャレスクな水車を回し、すぐそこにある海へと注ぐ、流れの速い川とそこに架けられた橋のある村。水車とその他の建物には、藁葺きの屋根の家々と不思議な対照をなす彫刻された石の切り妻壁がある。たくさんの草木が生え、その上に夏の朝の始まりの靄がかかる。…(注11)

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