― 380 ―…芸術は抽象だ。不幸なことに、われわれはますます理解されなくなってきた。…わたしはちょうどブルターニュの格闘という作品を終わらせたが、あなたは気にいると思う。2人の少年が、一人は朱色の下着を履き、もう一人は青色の下着を履いている。上部右には水から揚がってくる少年。そして緑の芝生―クロムイエローへ徐々に変化する純粋なヴェロネーゼグリーン、その表面は、日本の縮緬のように仕上がっていない(sans exécution)。…(注17)この作品に対するゴーギャンの意図をくみ取るならば、まず裸体画という点における人間の身体的側面への率直な関心の現われがある。1888年の段階でいまだ裸体画はゴーギャンにとって珍しく、しかも後のタヒチに見られる女性ではなく少年の裸体画への傾倒が見られる。そしてこの点は、「ペルーの野生人」という言葉から少年と自己との重ね合わせを示唆するが、その少年の足は地面との接触を多くするかのように過度に大きく誇張されている。また、作品の仕上げについての言及があるが、これは写実的に描かれた絵画の滑らかな表面に対する、「日本の縮緬」のような凹凸のある表面を指すと考えられる。「芸術は抽象である」との言葉から、このような表現は画家の再現でなく抽象への志向性を示すが、凹凸のある緑の地面は、大地とのつながり、すなわち「野生」を表現すると捉えられる。さらに、日本の縮緬、ペルーの野生人、ブルターニュの格闘は、絵画形式、制作者、絵画内容が一つの次元でつながっていることを暗示する。つまりこの作品は、当時ゴーギャンが目指していた「一つの形式と一つの色彩の綜合(注18)」という絵画様式の一つの到達点のみならず、ゴーギャンの自己形成の一端であると捉えられる。同時期ゴーギャンは、人間に対する眼差しを深める一方、宗教的なるものへの関心も抱くようになる。この背景には、当時交友のあったゴッホ、そしてベルナール(Émile Bernard, 1864−1941)からの影響があり、特に芸術家としてのキリスト像を見出していく(注19)。その中で、ゴーギャンは《説教の後の幻影》〔図6〕を制作する。奥行きのない平面性、対象を縁取る太い輪郭線、民族衣装をまとうブルターニュの女性といった表現、モチーフは、ベルナールの《牧草地のブルターニュの女性》(1888)に感化されてのものといわれている。ただし注目すべきは、この作品が《格闘する少年》同様の自己形成のひとつの役割を担っている点である。この作品を仕上げた9月終わりに、ゴッホに宛てた手紙の中で「ちょうどあまり出来栄えの良くない宗教的作品を仕上げた、制作は面白かったし気にいっているが。ポン=タヴァンの教会に寄贈したかったが、もちろん彼らは欲しがらない。…人物にお
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