― 392 ―られる。ただし、諸本の中でもいくつかの特徴的な画面には、鉄心斎本系統の影響が色濃くうかがえる。例えば、「河内越」において〔図16・17〕、諸本において女の傍にまま描かれる琴を描いていない点や(注20)、「富士山」における〔図18〕、馬上ではない男の姿などである(注21)。また、膨大な段数を有する如慶絵巻本においては、河田氏も指摘するように独自の場面も多い。その中でも、他本では絵画化されることが少なく、鉄心斎本系統において特徴的に見出せる「海松」〔図19〕や「忘れ草」〔図20〕も如慶絵巻本は選択しており、その図様も極めて近い。これに対して、鉄心斎本系統の特徴的表現としてこれまで取り上げてきた「関守」に関して、如慶絵巻本は番人を描くタイプであり〔図21〕、鉄心斎本との距離も認められる。だがこのことは、如慶の伊勢絵が様々な系統の図様を参照していたという事実を示すものであり、上述した鉄心斎本系統の関与は疑いない。そして、これら如慶の伊勢絵に鉄心斎本系統の図様が認められるという事実は偶然ではあるまい。如慶は近世住吉派の祖とされるが、もとは土佐光吉の門人として堺に住して画業を学んだ。如慶はこの光吉のもとで、光茂由来の伊勢絵、すなわち鉄心斎本系統の図様を手に入れたのではないか。光茂・光吉の間に血縁関係はないが、光吉は継嗣光元を亡くした光茂より伝世の文書、知行とともに、多くの絵手本や粉本を継承した。そして、光吉ら土佐派は、これらの粉本を用いて「犬追物図屏風」、「車争図屏風」、「大原御幸図」といった大画面絵画を制作したことが明らかにされている(注22)。土佐家累代の粉本類の中に、光茂周辺で制作された伊勢絵の図様が存在していたとしてもおかしくない。如慶の伊勢絵に土佐派系統の伊勢絵の図様系統の介入が認められるという点は、如慶以降の近世住吉派という画派の形成にあたって、土佐派の粉本や絵手本が大きな役割を果たしたという事実を如実に示すものとして、極めて重要な意義を持つものと思われる。おわりに以上本論では、室町後期から江戸初期にかけての伊勢絵の図様系譜とその展開を、土佐光茂工房周辺で制作されたと考えられる鉄心斎本と、これと系統を同じくする斎宮歴博本、チェスター・ビーティー本を軸として検討してきた。この系統はサントリー本を介して嵯峨本へ、また住吉如慶の伊勢絵へと引き継がれていく系譜に位置付けられる重要な伝本であると言うことができるだろう。嵯峨本は多くの近世伊勢絵が制作されるにあたって絶大な影響力をほこり、如慶筆伊勢絵は土佐―住吉というやまと
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