鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 399 ―1948年に文化学院で開催された「モダン・アート夏期講習会」(日本アヴァンギャルド美術家クラブ主催)において知り合った。その後、メンバーは岡本太郎と花田清輝を中心とする「アヴァンギャルド芸術研究会」と「世紀の会」へ参加するも、岡本への反発などから脱退し「プボワール」を結成するなど、新たな活動を模索する姿勢がうかがえる。音楽のメンバーもまた、それぞれに交流を始め、武満徹と鈴木博義の2名はともに作曲を清瀬保二に師事し、また合唱仲間として福島和夫と知り合ったという(注5)。また秋山邦晴は早稲田大学在学中に慶応大学や法政大学の学生にはたらきかけ、「現代音楽研究所」を結成、同会を通じて慶応大学の学生であった湯浅譲二と出会ったとしている(注6)。福島秀子と和夫が姉弟であったことは、美術と音楽のメンバーが結び付く重要な要素に違いないが、彼らの多くがしばしば足を運んでいたCIEライブラリーの存在も、彼らの交流の深まりと「実験工房」の活動を鑑みる上で見逃せない。山口勝弘は、1946年日比谷にCIEライブラリーが開設されたことを知ると、すぐに日参するようになった。山口はそこでモホリ=ナジの『Vision in Motion』や『The New Vision』に感銘を受け、また雑誌では『Art and Architecture』を愛読、さらにフレデリック・キースラーを知るなど彼の活動にとって極めて重要な経験をしている(注7)。さらに、書物からの刺激だけでなく、1950年5月から同館で週1、2回程度開催されるようになったレコード・コンサートは、「実験工房」に大きな影響をもたらした。山口がグループ結成以前から付けていた日記には、CIEライブラリーに関する記述は多数残されている(注8)。例えば、1950年3月24日には「CIEレコードコンサートに出かける。福島姉弟、竹光?鈴木氏など(何れも音楽をやる人々)に逢ふ」、同年3月27日には「福島宅の音楽家と画家の会に出席する。絵の方は北代、福島両氏と僕、音楽は武光、鈴木、福島の三人。(中略)音楽と絵画の相互交流の理解と刺激は必要である」と記している(注9)。ここからは、美術と音楽の面々が1950年3月頃から、福島姉弟も交え近しくなった様子が見て取れる。山口勝弘所有の資料の中からは、1950年のCIEレコード・コンサートのプログラムが4冊見つかっており〔図1、図2〕、この年特にこのコンサートに足を運んだものと考えられる。これらにはいずれも、コンサートの解説者としてアーネスト・サトウ(Y. Ernest Satow)の名前が記載されている。サトウはこの時期CIEの職に就いており、現代アメリカ音楽を日本に紹介する役割を担っていた。山口によれば、これらのレコード・コンサートの際に助手をつとめ、サトウが不在の際に代わって解説を行ったのが秋山邦晴であったという(注10)。秋山とサトウはいずれも早稲田大学の出身であ[■■][■■]

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