鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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2.「実験工房」とイサム・ノグチ「実験工房」は、音楽と美術が手を結んだことにより、自ずとその活動は演奏会や展覧会だけでなく、舞踊家や演出家との出会いを通じてバレエなど舞台作品に及んでいった。舞台での活動としては、「ピカソ祭」の『生きる悦び』(1951)のほか、日劇ミュージック・ホールのショー『神の国から谷底みれば』(1954)のための映像制作や、川路柳虹の息子でバレエの演出家であった川路明と、「デモクラート美術家協会」にも参加したバレリーナ松尾明美の二人と組んだ「バレエ実験劇場」(1955)、武智鉄二演出の『月に憑かれたピエロ』(1955)、橘秋子バレエ団のための舞台音楽及び舞台美術(1953−55)などが挙げられる。「実験工房」と同時代のバレエとの繋がりは強く、マーサ・グレアム舞踊団の舞台美術を手がけたイサム・ノグチの影響が考えられることは、大谷省吾も指摘している(注12)。『生きる悦び』の以前から、北代省三と今井直次は横山はるひバレエ団の舞台美術と照明をそれぞれ担当した経験があった。1950年9月の『失楽園』〔図3〕の装置を、瀧口修造は大きく取り上げ、「欧米の創作バレエに必ず近代派の画家が協力するのはもう常識で最近は彫刻家が参加している。米国では野口勇氏がその先鞭をきつている。この公演をきつかけにバレエと造形美術が本格的に手を握ることにしたい」と述べた(注13)。この時期の日本のバレエの舞台美術は、背景画が中心であり、北代による抽象的な立体造形は確かに他と一線を画すものであった。また、瀧口は丁度この時期に来日していたイサム・ノグチの舞台美術〔図4〕に対し大いに関心を寄せ、雑誌上で紹介している(注14)。このことから、「実験工房」は舞台芸術との関わり方として、イサム・ノグチを自分たちの一つのモデルとして捉えていたものと考えられる。さらに、『失楽園』については「目下滞在中である現代アメリカの著名な彫― 400 ―ったことから交流があったのではないかと推察する。ダリウス・ミヨー、エリック・サティ、レナード・バーンスタイン、ベラ・バルトークら、CIEレコード・コンサートで紹介された作曲家は、「実験工房」のコンサートでも取り上げられている。福島和夫は筆者のインタビューにおいて、CIEライブラリーについて、海外の音楽動向を知るほとんど唯一の場所であり、音だけでなく楽譜も見ることが出来、山口、武満、鈴木などの後に「実験工房」を結成するメンバーとよく顔を合わせていたと述懐してくれた(注11)。「実験工房」の活動において、CIEライブラリーとコンサートでの情報収集と交流の意義はきわめて大きいものであった。[■■]

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