3.ジョン・ケージとの交流日本におけるジョン・ケージの受容については上野正章の論考に詳しく、終戦直後から雑誌など文章の上では行われていたが、楽曲の紹介は1960年代まではごく限られていたと考えることができる(注18)。秋山邦晴がケージを知ったのは、1949年の春、『Art and Architecture』誌上のピーター・イェーツのケージ論であり、やはりCIEライブラリーでのことであった(注19)。秋山が強い関心を抱いていたケージと交流を持てるようになったのは1952年のことであり、前節で取り上げたイサム・ノグチが関係していた。1952年、イサム・ノグチの再来日の際、秋山は編集に携わっていた『レコード音楽』誌のため、ノグチに取材を試みた。しかし秋山の目的は、ノグチからケー― 401 ―刻家イサム・野口氏が舞台装置について種々助言を寄せ川路明氏がこれを監修する」(注15)と報じられており、直接的なイサム・ノグチの関与があった可能性もある。北代が1950年にイサム・ノグチと出会ったという記録や資料は今のところ見つかっていないが、川路がノグチと会い、新しい舞台美術についての助言を得て、立体造形を制作することの出来る作家として北代に装置を依頼したとも考えられるだろう。新しい舞台美術という点で、「実験工房」の一つの目標であったイサム・ノグチの装置は、1955年の「マーサ・グラーム舞踊団 日本特別公演」(1955年11月1日−7日、産経ホール/東京宝塚劇場)において実際に目にすることが可能となった。上演された7作品のうち「アパラチアの春」、「心の洞穴」、「夜の旅」、「迷宮への使い」、「情熱の歌」、「天人の対話」の6作品がノグチの装置によるもので、瀧口の紹介などにより、メンバーも1950年頃からすでに写真で見慣れた作品も含まれていた。公演に足を運んだ山口は、金属棒を用いた幾何学的な空間構成の「天人の対話」を特に評価している(注16)。マーサ・グレアム舞踊団の来日公演とほぼ同時期、「実験工房」は舞台の活動の代表作ともいえる『月に憑かれたピエロ』〔図5〕の上演に携わっていた。これはシェーンベルクの同名の楽曲を、武智鉄二が演劇作品として上演したもので、北代が装置と仮面、福島が衣装を手がけた。山口は同作品について、前衛音楽家や美術家が新しい舞台芸術に参加する際には、「マーサ・グラーム舞踊団にイサム・ノグチが参加した場合のように、舞台の空間・時間の新しい次元を創造するための積極的な参加でなければならない。その新しい次元の開拓の第一歩が、「月に憑かれたピエロ」において踏みだされたのである」と高く評価した(注17)。ここからは、自分たちの舞台への参加がイサム・ノグチと肩を並べるものであると自負していたことが読み取れる。[■■]
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