鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 402 ―ジについて語ってもらうことにあった(注20)。秋山は当時、ケージの楽曲を「実験工房」の演奏会で紹介したいと計画していたが、楽譜の入手が困難であった。その旨を聞いたノグチは、直接連絡を取るようケージの住所を秋山に教えたという(注21)。慶應義塾大学アートセンターの瀧口修造アーカイヴに所蔵されている「実験工房」メンバーの書簡はそれほど多くないが、秋山が瀧口に宛てた1952年7月29日の書簡には、秋山とケージの交流の一端が記されている。その中で秋山は「(ケージからの)手紙には、今度の演奏会には一寸曲が間に合うように送れないということと、目下テープ・レコーダーで自分の作品を極力録音していること、そして、若しも完成された作品とか何とかを問題にせず、一つの記録としてとって貰えるなら、次の演奏会までにテープレコーダにとった作品を送ってもいいということ」などが書いてあったと記している。今回の調査ではイリノイ州のノースウェスタン大学の音楽図書館には、ケージの書簡が保管されており、秋山や武満との書簡もあるということが分かった。その中には秋山との前述のようなやりとりも含まれている可能性があるため、今後はそれらの書簡の調査にあたるつもりである。ケージの楽曲を「実験工房」の発表会で紹介する計画は実現しなかったものの、山口や秋山など1960年代に「フルクサス」の活動に参加した者たちが、50年代の早い時期からすでにケージと交流を持っていたことは注目すべき事実である。前述のように、ケージの受容は文章が先行し、音として演奏会で演奏されるようになるのは60年代に入ってからであった(注22)。その間にケージの楽曲を耳にする数少ない機会の一つが、映画『カルダーの作品』(1950)の日本上映であった。同作品は25分程の短編カラー映画で、監督はハーバート・マター、音楽をジョン・ケージが手がけていた。日本では1954年9月に東京文化センターで上映され、かねてからケージに着目していた「実験工房」の北代省三、湯浅譲二は雑誌上で紹介を行っている(注23)。カルダーのさまざまなモビール作品に、ケージのプリペアド・ピアノの楽曲を合わせた同作品の試みは、「実験工房」の面々に音と造形の調和の例として共感を持って受け入れられたようである。1956年「花柳寿々絹舞踊会」において、武智鉄二演出の『ジョン・ケージ曲《アモレス》による“松風”』〔図6〕が上演された。これは、既成の舞台芸術に異義を唱え、『月に憑かれたピエロ』など実験的演出を行った武智鉄二が、ジョン・ケージのプリペアド・ピアノによる楽曲を用い、能の様式で上演した斬新な作品である。北代のモビール・オブジェの装置を用い、初演では北代、翌の再演では福島秀子が衣装を担当した。武智が『カルダーの作品』を見たかは不明だが、「実験工房」を通じてモビー

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