鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.北朝期神王像の概観北朝期における神王像の主要作例を概観しておく。まず、石窟の場合、龍門石窟賓陽中洞(515〜517年)主室前壁の南・北側の下部に表わされた十体の神王像を嚆矢とし、鞏県石窟一・三・四窟(520年頃)、北響堂山石窟北洞中心柱基壇部(北斉期)・南響堂山石窟第五窟四壁(565年)、宝山霊泉寺大留聖窟南・北両面(546年)、小南海中窟(550〜555年)、水浴寺石窟西窟(570〜576年)、天龍山石窟第一、十窟(北斉期)といった東魏から北斉期の石窟が挙げられる。また、敦煌石窟の中、西魏開鑿の第二四九窟北壁には鞏県石窟の牛神王とも類似した牛神王像が表わされ、北周期に開鑿された寧夏回族地自治区固原の須弥山石窟第四六窟中心柱右面神王像なども挙げられるが(注2)、上述した北斉期の作例と比べるとその数は極めて少ない。― 406 ―㊳ 中国北朝期神王像の受容と変容について研 究 者:京都大学大学院 文学研究科 研修員  徐   男 英はじめに中国北朝期における様々な仏教図像の中で、身体は人間で頭部が鳥ないし象などの神像、および樹木や火のついた鋏などを持物とし、石造像の台座や石窟の基壇部に坐す図像を、通常神王像という。 その作例は、主に東魏から北斉期という時期に限定され、また地域的にも河北・河南地方に限定される特徴的な図像である。神王像については、これまで鞏県石窟の作例を取上げた神道明子氏以来、様々な研究が行われている(注1)。 北朝期の神王像に関しては、様相や数、配列などすべてが同一というわけではないが、姿勢や持物、面相などはほぼ共通している。また神王像は皇帝や貴族を中心に造られた大規模な石窟だけではなく、 民間の寺院に納められた白玉像にも数多く表されている。これらの作例のうち、白玉像の神王像については未だ十分な検討は行われず、断片的に言及されるに留まっている。本稿では写真データの収集および二回に渡る中国現地調査に基づき、白玉像に表わされた神王像の諸特徴を分析し、さらに守護神像という視点から北朝期の神王像の受容と変容の問題に考察を進めたい。次に石造像の場合、西安碑林博物館所蔵の景明二年(501)銘四面像が現存遺品中もっとも早い例として知られている(注3)。また、アメリカ、イザベラ・スチュアート・ガードナー美術館所蔵の東魏武定元年(543)銘駱子寛等七十人仏五尊像(以

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