― 409 ―は巻一に列挙されていた仏法に帰依し仏を守護する神々が、巻一以下では「天龍八部」に代表され(注12)、 また『金光明經』では「諸天八部」(巻一)あるいは「一切諸天、龍及鬼神」(巻三)などとなり、他の仏典においても仏法に帰依するものとして、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆(人間)と、天龍八部一切衆生(天神・龍王および八部の衆神、要するに人間以外の神力をもっているすべての存在)が挙げられる(注13)。神王象が十体あるいは八体であることは、よく知られていた「天龍八部」を、天神・龍神と八部の計十体と解釈することも可能であるし、また天神・龍神を含めて計八体とも解釈可能である。〔表〕で挙げたように、駱子寛像〔表−③〕では龍神王を含めた十体を表しており、前者に相当する。それに対して、石造五尊仏立像〔図3・表−⑧〕以外の白玉像は、龍神王を除いた計八体として表され、これは後者に当たろう。このように白玉像の神王像では、天・龍神王を除いた八体を守護神とする傾向が看取され、経典上に挙げられている護法神の中で、比較的容易に図像化できるものが八部の衆神として選ばれたと考えることもできるだろう。これらの神王像の形態上の特徴をみると、まず姿勢については、片足を立てるか、あるいは両足を交差する坐勢である。面相は、鳥神王、象神王など動物をモチーフにするほか、珠、樹神王像の場合は、頭に宝冠(三面冠)を戴く。 服装は、天衣を左右に翻す例もあるが、円領、筒袖、長い上衣を着て、膨らんだ腹の下でベルトを締め、ズボンを着けて長いブーツを履く様子が共通して表されている。 これに対して、龍門石窟や鞏県石窟の神王像はどうだろうか。伎楽天像、菩■像に見られる大衣を右衽に着け、長裳をはく漢式の服装である〔表−①〕。こうした右衽に端的に見られる服制は、北魏太和十年(486)の孝文帝の漢化政策の一環として、胡服を漢民族の服装に改めた北魏当時の状況が、造像においても反映されたものである。このように北朝時代には、南朝の影響を受けて袖口が広く、交領、また長いズボンを膝下で縛って靴まで垂らしている例を、仏像、墓の壁画や俑に見出すことができる(注14)。それとは対照的に、白玉像では漢民族の服装ではなく、円領や長いブーツなどの西域風が看取される。こうした特徴は、首都付近に開鑿された北響堂山石窟や南響堂山石窟、宝山霊泉寺大留聖窟などの神王像とも共通し〔表−④、⑤〕、この地域の神王像がもつ特徴として注目に値する。さらに、石造交脚仏五尊像の神王像〔表−⑦〕の面相では、鼻が高く、目は深く窪むといった西方系の要素が顕著である。一方、河北省において多量に出土した曲陽修徳寺出土の定州系白玉像(注15) には、神王像の作例は知られていない。この地域の白玉像は、本稿で取上げた作例に比べる
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