鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3.北朝期河北地方白玉像における神王像の受容現存する北魏後期(520年頃)から北朝末までの神王像を見る限り、北斉時代の神王像は皇室が計画した大規模な石窟においても、都市寺院に奉安された仏像(白玉像)においても盛んに造られた。石窟、白玉像に共通して用いられた神王像は、東魏代の神王像が持つ図像的な特徴を維持しつつ、服装や面相においては西方風の要素が加えられたものと言える。それは北斉時期の■に広がった外来的な風潮を物語っていると思われる。以下では、神王像の上述の特徴を念頭に置きながら、その受容の背景を歴史的な側面から考えてみたい。― 410 ―と、大きさや光背、台座などといった点で■の周辺に比べて簡略な造りが多い。このように、河北出土の白玉像の中でも、■周辺とその他の地域において相違が認められる。このような制作傾向に照らせば、本稿で取上げた制作地不明の石造交脚仏五尊像〔図2〕と石造五尊仏立像〔図3〕は、河北地方においても■の周辺で造られた可能性が高いと言えよう。以上、白玉像の神王像には、■周辺で開鑿された石窟造像と同様、西域風が看取される。そして、多くが計八体に表わされる構成には、後代の八部衆像との関連を想定することもできるだろう。また、白玉像の神王像は、文宣帝が北斉第一代の皇帝に即位し、首都■の仏教が全盛を迎えた頃に、■の付近で制作されたものであるという可能性を指摘しておきたい。先行研究では、神王像が洛陽と■周辺の石窟を中心に北斉期に盛んに流行した背景として、以下のように論じている。まず、神道明子氏は『法華経』や『金光明経』等の鬼神による守護の思想が大きく影響して、また『大吉義神呪経』や羅什訳『仁王般若経』などの経典に共通する仏法守護の他、鬼神による国王と国家の守護思想に起因すると指摘した(注16)。また、八木春生氏は、北斉における神王像の流行についての直接的な結論は避けているが、北斉の領域各地に伝えられた神王像、およびそれと結びついた国家鎮護の思想が、民間レベルまで広がった結果、その地方での個人レベルでの造像においても神王像が造られ、流行するようになったと推定している(注17)。国王と国家における守護思想が強調される過程で、民間に至るまで盛んに造られるようになった、という指摘は概ね首肯できる。しかしながら、北斉期の経典に見出される数多くの守護神のうち、特に神王像が選択され流行した背景については、未だ明らかではない。以下にこの問題を考えたい。

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