鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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4.守護神の図像としての神王像の変容ところで、東魏・北斉と同様の状況にあった西魏、北周においては、神王像の作例があまり見られない。現在西安博物院所蔵の長方形仏龕形式の白玉像など、当時都だった長安(西安)付近からは白玉像が数多く出土しているが、そこには神王像は一切表されていない。白玉像以外の作例を探れば、西安桃園村出土の仏像台座(注18)に十二体の神王像があり、上半身裸形、下半身に長裳、頭部には頭光が表されている。さらに近年発掘された西安灞橋区湾子村出土の大象二年(580)銘仏立像の台座〔図6〕には、畏獣の姿の神王像らしき像が計九体表わされ(注19)、畏獣が象や牛を抱いた姿で象神王や牛神王が表わされている。既存の神王像には見られない、あたかも畏獣像と混合したような神王像が北周末期に見られるのは興味深い現象である(注20)。― 411 ―東魏期開鑿の鞏県石窟の第一、三窟をみれば、神王像が中心柱の基壇部に表わされる他、やや格が低い守護天神としての伎楽天、畏獣像が四壁の下部に表されている。このように初期では、神王像以外にも多様な神々の図像が表された。ところが、北斉期の首都■においては、多様な護法善神の中から、神王像がピックアップされ、しかも異国的なイメージを帯びたものとして表わされている。それは神王像がそもそも仏教に取り込まれた外来の神々であったことと共に、■に活動した工人らによる独創的な解釈に要因するだろう。 北朝期は、五三四年に北魏が分裂し、五八九年に隋が統一を果たすまで、東・西魏そして北斉・北周という混乱の時代が続いた。従って、このような北朝期の状況のなか、民間にまで守護思想が広がった結果、神王像が守護神の図像として白玉像に盛んに造られたと考えられる。このように西安においては従来の神王像とは異なった図像が現れており、こうした状況は、神王像が流行した■と比べると非常に対照的である。このことは、北周において守護思想の図像が、経典上に登場する多様な護法善神の中でも、馴染み深い畏獣像として取捨選択されたことによるのではないだろうか。当時長安を中心とした北周の仏教が貴族的な性向をもち、前代に引き続き黄花石や白玉の造像が盛んであったことは周知の通りである。作風のうえでは、北斉にみられるような際立った革新はなく、新しい影響を受けながらも概して保守的な造像が続いていると評価される。対して、北斉期の造像が多様性を帯びていること、特に当時首都■における外来的な要素については先学によってすでに指摘されている。東魏から

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