注⑴ 神王像に関しては、神道明子「鞏県石窟の諸神王像について」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊 第10集、文学・芸術学編、早稲田大学大学院文学研究科、1983年)をはじめ、林保堯「東魏武定元年銘石造釈■五尊立像略考─二仏並坐与観世音的図像構成及其成立基礎」(『藝叢』筑波大学芸術学研究誌第4号、筑波大学芸術学系芸術学研究室、1986年)、常青「北朝石窟神王彫刻述略」(『考古』科学出版社、1994年第12期)、趙秀榮「北朝石窟中的神王像」(『敦煌学輯刊』蘭州大学、1995年第1期)、金申「関於神王的探討」(『敦煌学輯刊』蘭州大学、1995年第1期)、「一方神王浮雕石台座」(『文物天地』文物出版社、1997年第1期)、のちに『仏教美術叢考』所収、科学出版社、2004年、殷光明「試論北涼石塔基座像与神王」(『敦煌研究』甘粛人民出版社、1996年第4期)、八木春生「いわゆる「十神王」像について」(『芸術研究報』21、 筑波大学芸術学系、2000年)、 李裕群「神王浮雕石仏座拓本考釈」(『文物』文物出版社、2010年第7期)などが参照される。なお6世紀の畏獣像を中心とした、田林啓「畏獣像小考─― 412 ―北斉時代、首都■は大都会として栄え(注21)、その人口の半分は僧侶で、数多くの寺院が存在し、雀離仏院という西域趣味の寺院が複数建立されたと伝えられる(注22)。また、近年発掘が続くソグド人の墓〔図7〕からは北方中国異民族の風習を窺うことが可能である(注23)。本稿で考察した円領の服装や、長いブーツを履いた神王像は、このような西域趣味が反映したものと考えられよう。結び以上の検討をまとめて結びとしたい。1)白玉像の場合、神王像は台座の背面から両側面にかけて計八体が表わされるものが最も多い。その場合、神王像の種類はその尊名判定の根拠となる駱子寛像の十体の神王像からほぼ外れない。2)白玉像の神王像は、それぞれの尊格の図像的な特徴に従いつつ、服制や面貌表現においては外来的な要素が看取される。このことは、北斉期首都■で流行した西域趣味との関係から理解される。3)それに対して、西安を中心した北周期の造像における神王像の作例は、さほど多くない。また近年発掘された作例には、神王像と畏獣像が混交して表されたものが見られる。その背景については、北周の保守的な造像傾向の下、神王像より畏獣像に対する守護神としての認識が強かったことが想定される。 北周における神王像の造像傾向を分析する資料はまだ十分とは言えず、今後は北周の造像に関する検討を重ねることで、北朝期における神王像の受容と変容の過程について考察を深めたい。
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