鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
429/620

第1章 菱川師宣の徒然草図― 418 ―㊴ 菱川師宣による徒然草図制作について研 究 者:国際浮世絵学会事務局  阿美古 理 恵はじめに江戸の市井を捉えた風俗画家として、生前より、浮世絵の祖とされた菱川師宣(?−1694)は、古歌・物語・故事説話等、古典的題材の作品を数多く制作している。なぜ、浮世絵師として名をなした師宣が大和絵師と自称し、殊更に古典画題を描き出そうとしたのか。この点について、当時の画壇の状況に照らして詳細に論じられたことはない。江戸時代初期、後水尾院(1596−1680)を中心に宮廷で発生した古典文化復興は、将軍家や大名、更には武士や裕福な商人にまで広がりを見せ、和歌や物語等、古典文学が流行し、これらを題材とした作品の需要も急激に高まっていた。この時期、鎌倉時代末(1331年頃)に吉田兼好が記した随筆『徒然草』の活字本や注釈書が矢継ぎ早に出版され、土佐派や住吉派はもとより狩野派に至るまで、徒然草図や兼好法師像、兼好法師行状絵等、徒然草を題材とした作品を広く手掛けている。本稿では、師宣が制作した徒然草図に注目し、師宣が当時の古典文化復興の流行にどのように対応し、肉筆画制作の需要拡大に努めたのか、また、いかに独自性を図ったのかを明らかにしていきたい。まず、師宣が制作した徒然草図について見ていこう。「雑画巻」と呼ばれる、16図もの様々な題材を描き並べた肉筆絵巻がある。「雑画巻」には「日本繪菱川師宣画」という署名があり、「日本繪」を冠した師宣の署名は、元禄期の作品に用いられていることや、描かれた人物の顔立ちから、本絵巻の制作時期は元禄(1688〜1703)前期、早くても貞享期(1684〜1687)以降と考えられている(注1)。『国華』813号にて最初に本絵巻を紹介された■崎宗重氏は、16図の全ての内容を検討し、画題を特定された(注2)。しかしながら、■崎氏は第13図〔図1〕については、画題が思い当たらないと述べている。平成12年に千葉市美術館で開催された「菱川師宣展」においても、「稚児物語の場面か川辺に僧や稚児達等が描かれた図」という解説があるだけである(注3)。この第13図を改めてみてみると、稚児が見物するなか地面を拝む僧や、宝物をもって逃げる男達が描かれている。これは、徒然草第54段に取材したものと考えてよいだ

元のページ  ../index.html#429

このブックを見る