― 419 ―ろう。この段は、仁和寺の稚児と遊ぼうと、法師たちが洒落た意匠の破子をつくり、箱に入れて岡に埋め、紅葉を散らしておいた。ところがそれを見ていた者が、盗み出してしまったので、稚児の前で、僧がもったいぶって数珠を磨り、印をむすんで掘り起こそうとしても箱は出てこず、僧たちは喧嘩になって帰ってしまったという話である。では、師宣は、徒然草第54段を描くにあたり、何を参考にしていたのだろうか。「雑画巻」の図様の成立にあたって、参考とされたと考えられる徒然草の絵入版本がある。それは、寛文10年(1670)に江戸の浄瑠璃本屋であった松会(注4)により刊行された『新板つれつれ草ゑ入り』という版本である(注5)(以下、『新板つれつれ草』と略称する)。雑画巻の図様と『新板つれつれ草』の第54段の挿絵〔図2〕を比較してみると、挿絵に描かれた、刀をさし、振り返る男や箱のようなものを持つ男が「雑画巻」の図様と類似する。この挿絵では、僧達と稚児を左に描き、男達を右下に描く構図も共通しており、師宣はこの挿絵を参考に「雑画巻」の徒然草図を描いたと考えられる。師宣は「雑画巻」の図以外にも、『新板つれつれ草』の挿絵を参考にして、肉筆の徒然草図を制作していたようである。寛政10年(1798)から文久3年(1863)にかけて住吉広行(1755−1811)等によって作成された『住吉家古画留帳』(東京藝術大学附属図書館蔵)には、徒然草第9段を描いた師宣の作品の縮図〔図3〕が収められている。これは、「女の髪すぢを縒れる綱には、大象もよく繋がれ」たという話を絵画化したものである。師宣作品の縮図と『新板つれつれ草』第9段の挿絵〔図4〕を比較すると、両作品の木につながれた象や女性の姿に、共通点が見出されるのである。ところで、『新板つれつれ草』の挿絵は、『アゴラ 鶴見大学図書館報』にて師宣風の絵と紹介されている(注6)。確かに、『新板つれつれ草』の挿絵は、師宣作とされる寛文11年(1671)刊『私可多咄』(注7)や師宣の署名を有する延宝5年(1677)刊『江戸雀』と画風が近似する。『江戸雀』〔図5〕と『私可多咄』〔図6〕、『新板つれつれ草』の挿絵〔図7〕を比べてみると、頬骨が高く上唇が厚い人物の顔立ちや、花びらの周りに小さな点を打ち、4、5枚の葉を散らすといった桜の特徴は、3作品に共通して見とめることができる。特に、『私可多咄』と『新板つれつれ草』は、子供の表現においても類似している。『私可多咄』は師宣作ではないという意見もある(注8)。しかしながら、『私可多咄』の挿絵に師宣の画風が胚胎していることは事実であり、師宣はこの画風を自己のものとすることで絵師として育っていったのである。『新板つれつれ草』の挿絵も師■
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