第2章 先行図様と御用絵師の徒然草図との関わり『新板つれつれ草』は、斎藤彰氏によって、松永貞徳(1571−1653)作『なぐさみ草』(跋文・慶安5年(1652))の挿絵が参考とされていることが指摘されている(注10)。『新板つれつれ草』〔図2〕と『なぐさみ草』の第54段の挿絵〔図8〕を比べると、稚児髷の稚児が見守る中、紅葉をかき分ける僧や数珠を■る僧の姿に共通点が見出せる。ただし、『なぐさみ草』では左下に描かれた人物の役割が不明であるが、『新板つれつれ草』では盗人の行動が具体的に描かれ、話の内容がより分かりやすくなっている。― 420 ―宣初期の作風につながる要素を持っているので、師宣もしくは、師宣周辺の絵師による作品と考えられる。師宣は、『新板つれつれ草』を刊行した松会から、寛文12年(1672)『料理献立集』、寛文13年(1673)『西行一代記』等、多くの絵入り版本を制作している(注9)。このことからも師宣と『新板つれつれ草』の挿絵絵師との近い関係が推測される。以上の考察を通じて、師宣は「雑画巻」をはじめ、肉筆の徒然草図を描くにあたって、『新板つれつれ草』の挿絵を参考としていたことが分かった。また、『新板つれつれ草』と『私可多咄』と『江戸雀』の挿絵の画風の類似から、『新板つれつれ草』が師宣周辺で作成されたことが推察された。以下では、師宣が肉筆で徒然草図を制作する際に参考とした図様が、どのような意味をもっていたかについて考察したい。また、師宣は、『なぐさみ草』の挿絵から直接図様を取って作画に用いていることが日野原健司氏によって指摘されている(注11)。延宝8年(1680)刊・師宣画『大和絵つくし』所収の徒然草第45段の図〔図9〕は、『なぐさみ草』の挿絵の第45段〔図10〕を参考に描かれたものである。徒然草が一般に普及したのは慶長期以降であった(注12)。慶長9年(1604)に徳川家康の侍医をつとめた寿命院立安(1550−1607)が、最初に古活字本で注釈書『徒然草寿命院抄』を刊行し、貞徳が初めて一般大衆に徒然草を講釈した。貞徳に講釈を勧めたのが、家康の儒臣・林羅山(1583−1657)の父や叔父等である。中院通勝(1556−1619)は徒然草の講義を貞徳に授け、藤原惺窩(1561−1619)も徒然草における漢籍関係の典拠を貞徳に教えると共に、貞徳に徒然草所収の和歌や物語類の出典を尋ねたという。惺窩は、林羅山の師である。羅山も元和7年(1621)の序をもつ徒然草の注釈本『野■』を整版にて出版している。惺窩と交流した三宅亡羊は、寛永10年
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