(1633)、御水尾院の仙洞御所で『徒然草』を講じている(注13)。そして、羅山、貞徳や野々口立圃等の貞門俳諧師は、鹿苑寺の住持鳳林承章(1593−1668)の文化サークルに参加していた。― 421 ―江戸初期における徒然草の流行は、寿命院立安、林羅山、松永貞徳、藤原惺窩等、儒者や医師など、将軍家や後水尾院周辺の公家等、高位の人々と関わりのある特定の知識人が担っていたのである。凰林の日記である『隔冥記』に、鳳林が北野天満宮の法師能貨の依頼で、尭然法親王に兼好像に徒然草の一段の揮毫を頼んだことが記されている(注14)。『隔冥記』の記事に記された兼好法師像を描いた絵師は不明であるが、尭然法親王は住吉如慶を剃髪し、法橋の位を授けた人物である。鳳林は、狩野探幽等、狩野派の画家たちとも交流していた。尭然法親王周辺で徒然草に関する作品の需要があったことを考えると、狩野派や住吉派における徒然草図制作には後水尾院周辺の皇族や知識人たちが大きく関わっていたと想像される。下原美保氏や島内裕子氏は、『なぐさみ草』の挿絵が、住吉派や狩野派の制作した徒然草の絵巻や屏風の図様と関連を持っていることを指摘している(注15)。狩野常信(1636−1713)筆「徒々草図」の模本(東京国立博物館所蔵)や住吉具慶(1631−1705)筆「徒然草図粉本」(三重県立斎宮歴史博物館蔵)に描かれた図様や構図において、『なぐさみ草』の挿絵といくつかの近似する点がみとめられるのである。先に見た『なぐさみ草』第45段の挿絵〔図10〕と「徒然草図粉本」の図様〔図11〕を比べてみると、杖をつく僧の姿と斧を振り上げて榎を切り倒そうとする人夫の姿に共通点が見出される。また、第77段の挿絵〔図12〕を見ると、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が採用されている。これは、テキスト中に言及はなく、『なぐさみ草』に見出される図様〔図13〕である。本粉本の存在は、具慶が徒然草の絵画化にあたって、『なぐさみ草』といった註釈書にも目配りをしていたことを示している。具慶は貞徳門の俳諧師である季吟と親しく交流しており、具慶の徒然草図制作にあたって、季吟の助言があったと考えられている(注16)。ところで、天和3年(1683)に刊行された『鹿野武左衛門口伝はなし』の「とりつぎのそさう」という話には、「点者の高井立志の子息人軒号を松葉軒名は立詠といふ文月中旬に人形町に俳諧の門弟に菱川といふ画工のかたへ夕つかた見まはれけるに」と記されており、師宣が俳諧点者であった高井立志の子息・立詠の門人であったことが知られる(注17)。高井立志(?−1681)は、和歌山の人で、浪人して江戸に移り、石出帯刀に出仕した。休甫を介して野々口立圃の門に入り、俳諧を学んだという(注
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