鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 423 ―のみ、見るものかは」という言葉と第7段の「命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき」(注21)を踏まえたものと考えられる。よしだのかねよしがつれ〳〵くさといふかなさうしにいふておかれしごとく、人はよそじに月はくまなきをみるものかなとあり。まことに今こゝにおもひあたれり。とし老たる男女かしらに雪をいたゞき、ひたいには四海なみしづかならずはげしきありさまみゝもとをさかりて、あしてはすだちのとりはじめてとぶごとくにしてうい〳〵しく、目はとをざかりてさだかならす。はだへはとうりのことく、こしに弓をはりてころくぶしにはあらねとも竹つゑにすがりてもくぞうのよばいにかよひ給ふごとくにありきしは、みくるしきもの也。年寄のくせとして一日もはやく死にたきなどゝよまひ事にいわるれども、まさかのときは孫彦やしは子にとりつきてもいきたくおもふものなり。そのしさいをたづぬるにむかしよりせわに、百なるはゞもこふじやはてまひとあれば也。詞書には「まことに今こゝにおもひあたれり」として、年老いた男女の見苦しさを面白おかしく書き連ね、挿絵には杖を尽きながら歩く老人の姿を描いている〔図17〕。挿絵には「とさりうの人形」という説明が付けられており、師宣が徒然草図といえば土佐流の人物画というイメージをもっていたことがうかがわれる。先に見たように師宣は貞門の俳諧師を通して、御用絵師の情報を得ていたことが推察された。ただし、その情報は間接的で不確かなものだったのだろう。そこに在野の町絵師である師宣の限界が見える。しかしながら、伝統という制約がないゆえに、「土佐流」は、師宣なりの解釈で人間味■れるものに変えられ、滑稽化した徒然草図が制作されていったと考えられる。師宣は、肉筆画とは異なり、版画においては独自の徒然草解釈を行っていたのである。おわりに以上、師宣の徒然草図がどのように形成されたかを見てきた。師宣が肉筆画の徒然草図制作において参照した『新板つれつれ草』は、そもそも師宣周辺で作られた作品であり、『新板つれつれ草』の挿絵の図様の典拠となった貞徳作『なぐさみ草』の挿

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