鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 浅野秀剛「菱川師宣筆「北楼及び演劇図巻」の検討」『菱川師宣と浮世絵の黎明』東京大学出⑹ 『アゴラ 鶴見大学図書館報』第113号、鶴見大学図書館、平成16年10月8日。⑺ 宮武外骨『菱川師宣画譜』雅俗文庫、明治42年(1909)。水谷不倒『古版小説挿画史』大岡山⑼ 笹生浩樹「菱川師宣版本一覧」『浮世絵師 菱川師宣』菱川師宣記念館、平成14年、56頁。⑽ 齋藤彰「徒然草版本の挿絵史⑵」『学苑』739号、昭和14年、32頁。⑾ 日野原健司「『大和絵つくし』にみる菱川師宣の「大和絵」学習について」(『美術史』162号、⑿ 『なぐさみ草』の跋文には「つれ〳〵草も天正の比まては名をしる人もまれなりしか慶長の時分より世にもてあつかふ事となれり」とある。日本古典文学影印叢刊29『なぐさみ草 下』貴重本刊行会、昭和59年、409頁。― 424 ―⑵ ■崎宗重「菱川師宣筆雑画巻」『国華』813号、国華社、昭和35年。⑶ 『菱川師宣展』千葉市美術館、平成12年、71頁。⑷ 今田洋三「江戸の出版資本」『江戸町人の研究』第3巻 吉川弘文館、昭和48年、114−115頁。⑸ 『新板つれつれ草』には、4種類の異なる版があることが確認されている。「寛文十稔相月良辰」の刊記のある松会衛版、松会衛版であるが刊年が削られ「相月」のみのもの、同じく松会衛版であるが、刊記の年月日が全て削除されたもの、そして刊記のない須原屋四郎兵衛版の4種類である。3種の松会衛版は同じ版木を用いていると考えられるが、須原屋版は人物の顔を直した跡などが確認でき、版木を新たに彫り直した再刻本である。本稿では、神奈川県立金沢文庫に所蔵される刊記のない松会衛本を底本とする。⑻ 田中喜作「師宣の初期絵入本に就て」『浮世絵』3号、昭和3年。佐藤悟「『私可多咄』の画工は菱川師宣に非ず─万治二年版の書肆的検討」『実践女子大学文学部紀要』第30集、実践女子大学文学部、昭和63年⒀ 上野洋三「解説」『吉原徒然草』岩波書店、平成15年、299頁。⒁ 寛文元年 五月廿日⒂ 島内裕子「描かれた徒然草」『放送大学研究年報』22号、放送大学、平成16年、下原美保「住絵は、住吉具慶や狩野常信等の御用絵師が徒然草図制作において参考とした作品であった。師宣は、『なぐさみ草』の挿絵に由来する図様を取り入れることで、徒然草流行に乗り、上層の人々からの肉筆画注文の獲得に取り組んでいったと考えられるのである。しかしながら、師宣の御用絵師の情報は貞門の俳諧師を通した間接的なものであった。御用絵師の作品を意識しつつも、師宣は版画においては、人間味あふれる滑稽化した徒然草図を制作していった。ここに師宣の独自性が認められるのである。版会、平成20年、29−34頁。書店、昭和10年。林美一『艶本研究 師宣』有光書房、昭和43年。美術史学会、平成19年3月、284−285頁。予赴大佛之妙法院宮大御所(堯然)御隠居、而自能貨、被頼、(卜部)兼好像之上、徒然草之一段被染尊毫事、頼申上也。密漬五斤入壹壺令持参、令進入于妙法院宮也。御対面、暫時打御雑談、而歸也。明日於 仙洞(後水尾)、而連歌之御會之旨、昨日被 仰出、依然、而於晴雲、令滞留也。『隔蓂記』第5巻 思文閣出版、昭和39年、74頁。

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