鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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II 「クオス・エゴ」のネプトゥヌス─善き統治者の寓意ィレンツェにいたラファエッロは、レオナルドの《クオス・エゴ》の描写を知る機会があり、1508年以降ローマでアラチェリの石棺浮彫を実際に見て、中央のネプトゥヌス単独像を同じく《クオス・エゴ》として中心構図に据えた銅版画下絵を制作したのである〔図5〕(注10)。ヴィッラ・マダマのネプトゥヌス像は、石棺浮彫から派生したレオナルド、ラファエッロの作例にも依拠した構図と捉えられるべきだろう。ヴィッラのネプトゥヌスがとりわけレオナルドの素描を参照していると思われるのは、下方への勢いを感じさせるネプトゥヌスの前傾姿勢と、向かって右側に配された海馬の、上方へのけ反った首の表現である。16世紀中頃に描かれたと考えられる『コーブルク素描帖』に収められた石棺の模写にも示される通り〔図8〕、石棺浮彫のネプトゥヌスは直立して右を向いた姿勢であり、右端の海馬の頭部は、鼻先が欠けてはいるものの、横向きであったことが分かる。海神のポーズと馬の頭部の方向性はいずれも、アラチェリの古代石棺には見出せない一方、ヴィッラ・マダマとレオナルド素描には共通する特徴であり、ここから両作品の密接な関連が看取できる。レオナルドの素描とラファエッロの版画では、矛を振り上げるネプトゥヌスはいずれも「クオス・エゴ」の場面を表しており、ヴィッラのネプトゥヌスも現在は部分的に損失しているが、本来は右手に三叉の矛を構えた「クオス・エゴ」の図像であったことが両者との比較により明らかとなるのである。ウェルギリウスが叙述する「クオス・エゴ」のエピソードは、『アエネーイス』冒頭、アエネーアスがイタリアへと向かう航海の途中、激しい嵐に巻き込まれ、船団が難破の危機に遭うところから始まる。その嵐はアエネーアスたちへ恨みを募らせたユーノーが、岩窟に閉じ込められた風を放つようアエオルスへ懇願したことによって生じたものだったが、海神ネプトゥヌスはそれを鎮め、アエネーアスは少数の仲間とともに生き延びカルタゴの地に上陸する。「クオス・エゴ」とは、海を鎮める際、ネプトゥヌスが荒れ狂う風に向かって「このようなものを私はQuos ego」と呼びかけ、「容赦しない」と続けて威嚇しようとした言葉に由来している(注11)。ここで注目したいのは、「クオス・エゴ」のネプトゥヌスは15世紀末以降の人文主義的解釈では「善き統治者」の暗喩であり、16世紀を通じて君主称揚の図像に用いられていた点である。クリストーフォロ・ランディーノは、『カマルドリ論議』(1470年初版)第3書の中で『アエネーイス』のネオプラトニズム的解釈を展開しており、物― 33 ―

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