1.はじめに昭和16年3月、旧満洲国国務院総務庁弘報処よって芸文指導要綱が発表された。文学や美術、音楽、演劇など、芸術分野の統制と育成の基本方針を定めたものである。それを受けて、旧満洲国には分野ごとに統制団体が設立され、制度上旧満洲国の版図の外にあった旧関東州には、旧満洲国に呼応した形で統制団体が設立され、旧満洲国と一体的な運営が図られた。2.芸文指導要綱以前昭和12年6月、文芸を中心とした文化関係者たちによって、満洲文話会が結成された。有志の呼びかけに104名の賛同者があり、関東州の都市大連で開かれた創立総会には、関東州内だけでなく、満洲国の哈爾浜や新京、奉天などからも出席があった(注1)。満洲文話会は、その後急速に発展し、「幾月も経たない中に、満洲に於ける文学運動の重要な指導標となり了せて了つた」という(注2)。― 429 ―㊵ 芸文指導要綱と旧満洲国における美術の統制研 究 者:徳島県立近代美術館 学芸課長 江 川 佳 秀日本人がこの地で行った美術活動は、近年になって、開かれた展覧会や美術団体の離合集散など、個々の活動が少しずつ掘り起こされている。しかし、1940年代の動向に関しては、美術界の動きを決定づけた統制の制度的な仕組みが明瞭でなかったため、断片的な事実の羅列にとどまっていると言っても過言でない。本研究はこの点に注目し、芸文指導要綱に基づいて美術界に設けられた統制団体満洲美術家協会の概要を明らかにしようとするものである。この地の美術の動向をより鮮明に理解する手がかりになるだけでなく、日本が東アジアで実施しようとした文化統制の一端も、浮かび上がらせることになるだろう。なお、文中では、「満洲国」(旧満洲国、偽満洲国家)や「関東州」(旧関東州)、「新京」(現、長春)など、当時の日本が用いた国名や地名を、括弧や注釈を添えず、そのまま用いる。これらの呼称が正当性を欠くことは論をまたないが、記述の混乱を避けるためであって他意はない。あらかじめ、このことをご了承いただきたい。自然発生的に始まった民間団体だが、当初満洲国政府は、この団体を文化の統制機関として利用しようとした。すでに文学史の立場から、岡田英樹氏の先行研究があることだが、芸文指導要綱が実施される直前の文化政策を象徴する出来事である。そこで岡田氏の研究も参照しながら、まず満洲国政府による満洲文話会への干渉の経過
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