鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 430 ―を、簡単に記しておく(注3)。満洲文話会は、会規第1条に「文化文芸ニ関心アル会員相互ノ連絡親睦ヲ図ル」としていたように(注4)、特定の主義主張を持たず、会員の親睦を目的としていた。『満洲文話会通信』と『満洲文芸年鑑』を刊行し、講演会や座談会、映画鑑賞会などの開催、日本から満洲を訪れる文化人の受け入れなどを行っていた(注5)。ところが昭和14年8月には、それまで大連に置いていた本部を満洲国の首都新京に移し、昭和15年6月には、新京で開いた第3回総会で組織の大幅な見直しを行った。文芸を中心としていた従来の組織を、美術や音楽、映画、演劇などにも対象を広げ、総合的な文化団体に改組することを決めたのだ。また、それまで「連絡親睦」を会の趣旨としていたが、新たに設けた綱領で、「文化各部門ニ於ケル活動ニヨリ建国精神ノ顕揚、民族協和ノ実践、国民生活ノ向上、宣徳達情ノ徹底、国民動員ノ完遂ニ寄与シテ以テ建国理想ノ実現、道義世界ノ建設ニ翼賛セムコトヲ期ス」と、満洲国の国策に沿った活動を展開することを表明した。第3回総会終了後は、初めて政府の補助金を受け、文学者や美術家、演劇関係者らを、日本や満洲国内各地の視察に派遣した。この時期の社会に目を向けると、昭和12年8月には日本と南京政府との間で全面戦争となり、9月には日本で国民精神総動員運動が始まっていた。満洲国でも日本国内と呼応して、10月から国民精神総動員全国的大運動が始まった(注6)。時代は戦時色を深め、日本においても、満洲においても、文化の統制が急務となっていた。満洲文話会への満洲国政府の関与は、このような情勢の下で行われた。しかし、やはり岡田氏が指摘しているとおり、このように組織改革を行っても、満洲文話会のあり方は、為政者を満足させるものとはならなかった。現地で刊行された日本語新聞の記事は、改革後の満洲文話会が、「国内文化の昂揚及び民衆啓蒙の役割を受持つものとしては唯一の団体」でありながら、「政府の意志は事務局までで下部会員には充分な浸透を見」なかった、会員の中には「自由主義的傾向なしとせず」という状況だったとしている(注7)。振り返ると、満洲文話会が結成された頃、満洲の文化界では「大連イデオロギー」と「新京イデオロギー」という言葉が盛んに用いられていた。前の時代の自由主義的な気風を残す大連文化界と、大陸における権益擁護を目的に、関東軍の主導で建国された満洲国の首都にふさわしく、全体主義的、国家主義的な雰囲気を漂わせる新京文化界の気風の違いを説明した言葉である。大連、新京と地名を冠しているが、大連イデオロギーとは、古くから満洲に住む文化関係者に広く見られた気風であり、新京イデオロギーとは、満洲国の文化政策そのものだった。

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