鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3.芸文指導要綱の実施昭和15年末、満洲国政府は国務院の新官制を公布し、翌年1月1日に施行した。文化行政の権限を、国務院総務庁弘報処に集約するものだった。これにより弘報処は、従来から所管していた「与論ノ指導」「重要政策ノ発表」「宣伝資材ノ統制」に加えて、他の部署や特殊法人に分散していた「文芸、美術、音楽、演劇、映画、唱片及図書等ノ普及」「弘報機関ノ指導監督」「出版物、映画其ノ他ノ宣伝物ノ取締」などの事務を所管することになった(注8)。文化統制の強化に向けた機構改革は、日満両政府に連動した動きで、日本でも昭和15年12月に新官制が施行され、情報の統制を一元的に所管する内閣情報局が発足していた。― 431 ―満洲文話会に、結成直後から満洲各地の文化関係者が集まった背景には、満洲国の文化政策に対して、文化関係者たちが一様に抱いた危機感があったのだろう。満洲文話会の出自とは、大連イデオロギーそのものだったのだ。組織を改め、補助金を与えても、容易に政府が期待する成果が現れなかったのは当然のことだった。新たに発足した弘報処は、昭和16年3月23日、満洲国と関東州の文化関係者140名を新京に集め、文化政策懇談会を開いた。芸文指導要綱はこの場で発表された(注9)。満洲国が目指すべき芸術のあり方と、そのために整備する諸制度の概要を示したものである。芸文という用語は、意味に幅がある文化という言葉を避けて、文化全般のうち特に「文芸、美術、音楽、演劇、映画、写真等」を指す言葉として選ばれた(第1条1項)。弘報処長だった武藤富男は、「芸術、文学を合せて芸文、或は芸術文化といふ言葉を略して芸文と称するといふやうにお考へ願へれば御納得がゆくのでないかと思ふ」と解説している(注10)。芸文指導要綱では、満洲国における「芸文」を「建国精神ヲ基調」とし、「国家建設ヲ行フ為ノ精神的生産及生産物」と規定している(第2条1,3項)。為政者にとって不都合な表現活動を排除するだけでなく、一歩進んで、積極的に国家にとって有用な芸術作品を創り出そうとするものだった。そして、分野ごとに団体を設け(第3条1項)、それらを統括する上部団体として、満洲芸文連盟を設けるとしている(第3条2項)。満洲国政府は、これら「各団体ヲ直接指導」するとしている(第3条3項)。これを受けて、8月までに満洲文芸家協会、満洲劇団協会、満洲楽団協会、満洲美術家協会が設立され、弘報処長から各団体の委員長と委員が任命された。8月25日には満洲芸文連盟が設立され(注11)、9月10日には芸文諮議会が設置された。芸文諮

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