鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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4.美術界の変容芸文指導要綱が実施に移されると、この地の美術界は急速に様相を変えていった。― 432 ―議会とは、政府の芸文政策に関して「必要なる建言をなし又は諮問に応ずる」機関である。諮議は「芸文に造詣深き朝野の長老」と、各協会の委員長および芸文連盟事務局長が任命された(注12)。この後も、翌年2月まで、満洲書道家協会、満洲写真家協会、満洲工芸家協会の結成が続いた(注13)。満洲文話会については、9月に開かれた芸文諮議会の初会合で議題になり、本部を「発展的解消」し、地域ごとの文話会に解体することを「総意を以て」決議した(注14)。各地の文話会は、満洲芸文連盟の傘下に組み入れられることになった(注15)。満洲文話会の中に命脈を保っていた「大連イデオロギー」は、これで一応の終息を迎えることになった。美術界の体制についてふれておくと、満洲美術家協会は7月28日に弘報処が主催して開かれた設立委員会で設立要綱が決まった。設立委員会の委員は、この年の満洲国美術展覧会の美術委員たちだった(注16)。設立大会は8月17日に国務院講堂で開かれ、弘報処長を始め関係者と会員約100名が出席した。設立時の会員数は130名である(注17)。結成後3年目を迎えていた満洲漫画家連盟は、このとき満洲美術家協会に合流して満洲美術家協会漫画部となった(注18)。総会後、協会の役員たちは9月7日に第1回の委員会を開いた(注19)。それ以降の役員の変遷は、[資料2]にまとめた。関東州では、正確な時期は不明だが、満洲美術家協会に呼応して、8月から9月頃に関東州絵画協会が結成され、やはり満洲芸文連盟に呼応して組織された関東州芸文連盟の下部組織となった(注20)。その後、満洲美術家協会は各地に支部を設け、美術研究所を開設していった。会員と一般希望者を対象とし、会員の中から選ばれた者が指導にあたった[資料3]。技術的な指導だけでなく、政府が期待する「芸文」の意味を伝える場でもあったのだろう。目につく出来事を、いくつかをあげておく。美術家たちは、文学者や写真家、映画関係者らとともに、報道隊、弘報隊、奉公班、報国隊などの名で、盛んに関東軍の部隊や国境地帯の開拓村、工場などに送り込まれるようになった。国防や国家建設の最前線に取材した作品を描き、現地の雰囲気を国民に伝えるためであり、同時に参加者の意識改革を促すためだった。関東軍や政府の関係機関が組織したものだけでなく、美術家たちが自ら組織したものもあった。

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