― 433 ―たとえば、昭和17年に5次にわたって実施された報道隊は、2月から10月にかけて、関東軍の部隊や開拓地、鉱山、軍事工場などで実施された。1日や数日で終わった回もあるが、長いときは19日間に及んだ。少ないときで4名、多いときは13名の満洲美術家協会会員が参加した。彼らが現地で描いたスケッチは、一部が新聞紙上に図版で掲載され、新京で開かれた「報道隊スケッチ展」でも公開された(注21)。昭和18年には、関東軍報道隊の冬期演習と夏期演習があった。冬期演習は1月から2月にかけて19日間の日程で、北部国境地帯で実施された。日満合同演習の形をとり、満洲から満洲美術家協会会員19名が、日本から陸軍美術協会会員7名が参加した。彼らは関東軍の兵舎で兵士たちと寝食をともにし、国境地帯の防衛の現場を取材した。作品は満洲各地を巡回した展覧会で公開されたあと、関東軍に納められた(注22)。夏期演習は7月に実施され、28名の満洲美術家協会会員が3班に分かれ、3つの部隊で1日入営を行った(注23)。また、昭和18年からは、12月に新京で決戦美術「北の護り」という展覧会が開かれるようになった。主催者は満洲美術家協会である。展覧会の名称は、緊迫化していた北部国境地帯の対ソ防衛にちなんでいる。第1回展の会場には、会員を生産や輸送、開拓などの現場に派遣し、取材させた作品が並んだ(注24)。新聞の展覧会評は、「二年来報道隊演習によつてつづけられてきた錬成が、ここに一応の結実をみた」「満洲の画家も、題材を示されさへすれば、相当なところまで達し得る」としている(注25)。昭和16年から18年にかけては、毎年新京で芸文祭という行事もあった。満洲芸文連盟が主催したもので、連盟傘下の団体が共同で催し物を用意した。第1回を例にとると、歌と軽音楽、舞踏、演劇などの舞台があり、満洲美術家協会が舞台美術を担当した。文芸家協会、楽団協会、劇団協会と共同で「詩の舞台」も上演した(注26)。この時期は、日本から将来された聖戦美術展や、大東亜戦争美術展も満洲各地を巡回したが、いずれも満洲美術家協会の主催だった。このように、芸文指導要綱実施以降の美術界は、急速に戦時色一色に覆い尽くされていった。美術家たちは満洲美術家協会の下に組織され、具体的な制作の課題が与えられ、取材や共同作業に動員される体制が出来上がったのだ。それは、美術界の表舞台だけでなく、水面下でも、たとえば昭和16年(1941)11月から12月初頭にかけて、日米開戦に備えて弘報処が準備していたポスターの仕上げに、満洲美術家協会会員が動員されるといったこともあったようだ(注27)。芸文指導要綱による美術の統制は、確実に一定の成果を上げていたといえるだろう。
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